ドラ1の壊れていく右肩「痛いと言ったら終わり」 1人で隠れて治療…増え続けた“爆弾”

元阪神・中田良弘氏【写真提供:産経新聞社】
元阪神・中田良弘氏【写真提供:産経新聞社】

中田良弘氏は1年目に右肩痛を発症…2年目は1登板、3年目は防御率7.66

 怪我と付き合う日々だった。元阪神ドラフト1位右腕の中田良弘氏(野球評論家)のプロ生活は、1年目(1981年)に右肩を痛めて暗転した。2年目の1982年はわずか1登板で、3年目の1983年は18登板で0勝0敗、防御率7.66と苦しんだ。「球の切れがなくなりました」と悔しそうに話す。横浜高時代に痛めた右膝の状態も良くなく「2年目のオフに膝の軟骨を削った」という。さらに3年目のハワイ・マウイ島キャンプでは突然、握力がなくなる事態に見舞われていた。

 プロ1年目の8月中旬に中田氏は右肩を痛めた。1軍に帯同しながら調整し、9月上旬には試合で投げるようになったが、痛める前の状態には戻っていなかったという。「もう全然でした。球の切れがなくなった。僕はどっちかといえば、スピードでガーッといくタイプじゃなくて、スッといくタイプ。打てそうで打てない感じ。ショートを守っていた真弓(明信)さんには『おい、ちゅんた(中田)、ようあんな真っ直ぐで抑えられるなぁ』って言われていましたからね」。

 いわば打者の手元での伸び、球の切れは生命線。それが右肩痛によって思うようにいかなくなった。1年目の成績は38登板、6勝5敗8セーブ、防御率3.39。終盤は数字を伸ばせなかった。2年目にも響いた。右肩の状況はなかなか上向かなかった。「リハビリとかもやっていましたけど、今、考えてみたら、ちゃんとした治療をしていたのかなって思いますね。今じゃもっとすごい強化の仕方とかあるじゃないですか」と中田氏は何とも言えない表情で話した。

 2年目の登板はシーズン最終の10月16日の広島戦(広島)の1試合だけ。「やっと実戦で投げられるようになって、最後に(1軍から)呼ばれていったのは覚えている」という復帰登板は、2番手で4回1安打無失点と好投した。だが、これについても「肩が治ったという感じではなく、まだまだ半信半疑。痛みも多少あったと思います」と言い、不安が解消されたわけではなかった。高校時代からの右膝痛の問題もあった。3年目には体にさらなる異変も起きた。

 相変わらず右肩は万全ではなかったものの、投げられない状態ではなく、中田氏は1軍のハワイ・マウイキャンプのメンバーに入った。そこでのことだった。「ブルペンで40球くらい投げると(右手の)握力がおかしくなるようになったんです。ちゃんと握れなくて真っ直ぐが投げられなくなった。何とかカーブはいけたんですけど、(1軍投手コーチの)小山(正明)さんに『若いもんが変化球ばかり放りやがって』って怒られました」。

3年目キャンプで異変も首脳陣に申告できず…オフの検査で血行障害が判明

 右手の不調は首脳陣に申告しなかった。申告できなかった。「だって、そこでまた『痛い』とか言ったら『日本に帰れ』って言われるから嫌じゃないですか」と言う。「マウイの時は肩も痛くなったけど、それも言いませんでした。夜にこっそりトレーナー室に行って、やいと(灸)があったので自分でやっていましたよ。熱いし、効くのかなと思ってね。そしたら火傷しました。痛かったけど、それも言いませんでしたね」と苦笑いも浮かべた。

 そして、こう続けた。「今の選手は肩がどうのこうの、ってすぐ言うじゃないですか。ちょっとおかしいと思ったらね。で、治療なり間隔をあけるじゃないですか、そしたらすぐ投げるでしょ。僕らの頃は『痛い』って言った時は終わりですよ、だいたいのピッチャーが……。(治療にも)時間がもうずーっとかかるしね。やっぱり今の方が進んでいますよね。トレーニング方法も違うだろうし……」。

 プロ3年目の中田氏の右肩、右手の状態は日によって違ったという。結局、いずれも特別な治療をすることなく、シーズンを終えた。その年はすべてリリーフの18登板で0勝0敗、防御率7.66と好結果を残せなかった。「右手は握力がなくなったら夏でも冷たくなったりしていたんですけどね。何とかごまかしながらやりました。それでオフに病院に行って検査したら血行障害でした。右腕の真ん中くらい、(血管の)一番太いところが詰まっていました。手術はしませんでしたけどね」。

 高校時代の右膝痛、プロ1年目の右肩痛に続いてプロ3年目に血行障害。そのすべてが完治することはなく、故障歴だけが増えていった。「この後には右肘も痛くなるんですけどね」と中田氏は笑った。もはや笑うしかない感じで話した。まさに怪我と付き合いながらのプロ生活だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY