王貞治の名を全米に知らしめたアーロンとの“HR競争” 実現に尽力したパンチョ伊東氏【マイ・メジャー・ノート】

1974年に後楽園球場で本塁打競争を演じた王貞治氏(左)とハンク・アーロン氏【写真:産経新聞社】
1974年に後楽園球場で本塁打競争を演じた王貞治氏(左)とハンク・アーロン氏【写真:産経新聞社】

1974年11月2日、後楽園球場でハンク・アーロンと王貞治による“本塁打競争”が行われた

 50年前の春、不滅といわれたベーブ・ルースの本塁打記録を塗りかえる715号を放ったのがハンク・アーロン。その前年にバットボーイとして、希代のホームランアーティストを間近で見つめていたのが、ブレーブス取材歴半世紀を数えるケビン・バーンズ氏である。話は、日本プロ野球で868本の生涯本塁打を記録した王貞治との思い出と、1974年秋に東京で行われたアーロンと王の“世紀の本塁打対決”実現へ尽力した日本人へと広がった。【全2回の後編】(取材・構成=木崎英夫)

 アーロンの打球が描く放物線に魅了されたバーンズ氏が、日本のホームランキング、王の存在を知ったのは1974年11月だった。米3大ネットワークの1つであるCBSテレビが企画したアーロンと王の夢の競演をテレビ観戦。1本差で勝利したアーロンに追いすがった一本足打法の王に目を奪われた。

「一本足打法といえば、子供のころに写真で見たメル・オットがすぐに浮かびます。アメリカの野球ファンならそうでしょう。でも、テレビで見たサダハル・オウのそれはオットとは違っていた。バランスの良さに驚きました。全体重を無駄なくボールにぶつけるフォームは、まさに完成品という印象を受けました」

 バーンズ氏の感動を誘った出来事は1974年11月2日、巨人対メッツの親善試合の前に後楽園球場で行われ、メッツナインも見守った。ファウルを除きフェアの打球計20回(5回ずつで交代)で本塁打を何本打つかで勝者を決めた。第1、第2ラウンドを終え両雄は6本ずつで並んだ。そこからアーロンが勢いづく。

 記憶の欠片(かけら)を拾い上げたバーンズ氏は、膝を軽く叩いてから言った。

「確か、最終ラウンドでちょっとありましたよね……。そうだ、オウが2本続けて右翼ポール際に放り込んで、そのうちの1本がアーロンの抗議でファウルになったんですよ。結局、1本差でアーロンが勝ちましたが、ほぼ互角。サダハル・オウの名はアメリカ中の野球ファンに知れ渡りました。帰国後にアーロンが真剣な顔でオウの実力をメディアに語り出したのを覚えています」

メジャーリーグ取材を行うパンチョ伊東氏【写真:産経新聞社】
メジャーリーグ取材を行うパンチョ伊東氏【写真:産経新聞社】

イベントを仕切ったパンチョ伊東氏…パ広報部長でメジャー解説の第一人者だった

 この一大イベントを契機に2人は厚い友情で結ばれ、現役引退後には一緒に世界少年野球大会を開いたことは広く知られている。

 審判のファウル判定に議論は起きたものの、日本テレビ系列で録画中継ながら関東地区では27.8%の高視聴率を記録。成功裏に終えた企画について、何か言いたげだったバーンズ氏は「知ってます? パンチョのこと」と切り出し、分け入った。

「ブレーブスからは広報部長と番記者1人がアーロンに同行しました。異国の地でただバットを振り、それをメディアが発信するという単純なことではありませんから、現地での仕切り役が必要でした。適任者がいました。窓口になったのが、メジャーに精通しブレーブスにも多くの知り合いがいたパンチョ・イトウです。事はすべて円滑に進んだと聞いています。世紀の対決の功労者の1人がパンチョですよ。若造だった私にもよくしてくれてね。優しい人でした」

 話の切り出しが疑問形で来た分、グイっと食い込んできた――。

 野茂英雄がドジャースに移籍しトルネード旋風を巻き起こした翌年の1996年、フジテレビの番組で出会って以来、公私ともにお世話になったのが、“パンチョ”の愛称で親しまれた伊東一雄氏である。パ・リーグの名物広報部長から唯一無二のメジャー解説者となり人気を博したが、2002年の夏に他界。その年の厳冬1月だった。入室制限がかかっていた東京・信濃町の慶応病院の個室病棟で貴重な話を聞かせていただいた。その中の「イチローをしっかりと見ておけ。日本人選手だけでなく俯瞰(ふかん)の目でメジャーとアメリカの文化を伝えなさい」は記者の使命になった。

 ルースを超える大記録達成を前に、黒人という理由で脅迫の手紙を受け取っていたアーロン。台湾出身の父親を持ち少年時代にいじめや差別に直面したことがある王。そして、父の忠言に逆らい1ドル360円の固定相場時代から続けたメジャー行脚。「家一戸分はつぎ込んだ」自己投資で、独自の人脈を築いたパンチョさん。選手とメディアの枠を超えて、野球愛にあふれ強い意志を持ったくっきりとした3人の像が結ばれた。

ブレーブス取材歴50年のケビン・バーンズ氏【写真:木崎英夫】
ブレーブス取材歴50年のケビン・バーンズ氏【写真:木崎英夫】

忘れられぬ王貞治への単独インタビュー…「しっかり準備しました」

 時は移り、アーロンは3年前の1月に86歳で他界。王は84歳になった。そして、18歳だったバットボーイは69歳になった――。2人の偉大な打者の記憶で決して色あせないもの1つを聞くと、バーンズ氏は遠くを見る目になり、ゆっくりと話し出した。

「1996年のアトランタオリンピックの数年前でした。サダハル・オウとハンク・アーロンが指揮を執るチームが親善試合を行ったのですが、その前日、オウさんに単独インタビューをする機会に恵まれ、こちらの質問の意を汲み取りながら丁寧に答えてくれました。感激しましたね。その時に録音したテープはいまも大切に持っています」

 インタビューの翌日、バーンズ氏は通訳を務めた女性から王が質問の内容に感心していたことを聞かされた。不安だらけで臨んだものの、自信はあったと明かす。満面の笑みを浮かべたバーンズ氏に、思わずひと膝乗り出した。

「通訳の方に、オウさんにこう伝えてくださいと言ったんです。『打席に立つ前に相手投手の情報をインプットして挑むあなたと同じように、僕もしっかりと準備をしました』とね」

 バーンズ氏は、デービッド・フォークナーの名著『Sadaharu Oh: A Zen Way of Baseball』(1982年刊)を熟読してインタビューに臨んでいた。

尋ねた米野球殿堂博物館…フィルムから響くアーロンのメッセージ

 11月半ば、小雪が舞うクーパーズタウンの米野球殿堂博物館を訪ねた。レンガ造りの3階建ての同館では、各階を回る前に併設されている「Grandstand Theater」で、殿堂の歴史をまとめた約16分のフィルム鑑賞を推奨している。

 スクリーンに穏やかな表情のアーロンが映ると、動き出した唇からは情緒に訴えるメッセージが響き出す。

「多くの人は、ベーブ・ルースの記録を抜くためにやっていたのだろうと言いました。でも、それは違います。私は、(メジャーでプレーするという)夢を果たすためにずっとやってきただけです。だから、皆さんには、ベーブ・ルースのこともハンク・アーロンのことも忘れないでほしいのです」

 動機と決意が沁みわたるメッセージには、余人には知り得ない寂寥(せきりょう)が背後から立ちのぼってくる。数字にも、言葉と同じように“実体”がある――。その気配は、バーンズ氏と会った秋風が吹くアトランタにあった。

◯著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。シアトル在住。

(木崎英夫 / Hideo Kizaki)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY