10分で終わった通告「我々は契約しません」 “新庄2世”の呼び声も…3年で訪れた戦力外

元阪神・甲斐雄平さん【写真:飯田航平】
元阪神・甲斐雄平さん【写真:飯田航平】

戸惑った期待の高さ…今だから振り返る「はっきり言って失敗」

 肌寒さを感じる季節になると、プロ野球選手だったことを思い出す。阪神で3年間、外野手としてプレーした甲斐雄平さんは、2012年限りで現役を引退。保健体育の高校教員としてセカンドキャリアをスタートさせた。「一生懸命、野球に貢献せないかんと思う」と、現在は福岡西陵高の監督として野球に携わり続けている。

 福岡大から2009年ドラフト3位で阪神に入団した甲斐さん。当時の握力は両手ともに80キロを超え、りんごが握りつぶせるほどだった。その身体能力の高さに加え、日本ハムの新庄剛志監督と同じ福岡出身の外野手ということもあり、“新庄2世”との期待が集まった。さらに、背番号はランディ・バース氏が背負った「44番」に決まった。

 意気揚々と臨んだ新人合同自主トレでは、早々に右ハムストリングを肉離れをした。「はっきり言って失敗。くじけましたね。それがもしなかったら、わからなかったと思う。ただ、もうその時点でスタート地点に立てていなかったので。まずそこがターニングポイントでした」。その後も腰や肩、脇腹を痛めるなど、満足にプレーできない1年目を過ごした。

 2年目を迎えても、球団は入団時と変わらない期待をかけてくれた。「ウインターリーグにも行かせてくれたし、フレッシュオールスターにも出させてもらった。何かしらのところでっていう期待も込められていたんだと思います。オーストラリアは菊池雄星もおったなぁ」。自身の才能を開花させるため、サポートを続けてくれた球団に、甲斐さんは頭を下げた。

3年目のシーズン序盤で悟った戦力外…「ふてくされました」

 今季こそは1軍で――。そんな気持ちで迎えた3年目のシーズン。“ある変化”が起きた。「それまで地元福岡での遠征には行っていたんです。でも、3年目から(ソフトバンク2軍本拠地の)雁の巣に行けなくなったんです。その時くらいから(阪神の)育成選手が多くなってきて、2軍の控えメンバーで独立リーグとの試合にも行くようになった。それこそナックル姫(吉田えりさん)とも勝負しましたよ。(2軍で)3割近く打っていたのに、福岡にも行けなくなって。残って練習する日々でしたね。そこで、もう薄々『あー、今年で終わるな』みたいな」。

 風向きは明らかに変わった。「『え、こんなに遠征行けんと?』って。ふてくされました。そもそも左ピッチャーの時しか試合に出られなくなった。右投手でも打席に立たしてくれって思いながら……。代打や守備からの出場だから、1試合に1打席あるかないか。少ないチャンスでしたね」。“今年で終わる”との予感は、このオフに悲しくも現実のものとなった。

 ひんやりとした空気を感じ始める頃、戦力外が告げられた。「これはよく覚えています。『ついに来たか』って感じで、2軍のマネジャーに言われて(球団事務所に)行きました。言葉で表現するなら“淡々”としていましたよ。『我々は契約しません』って。10分弱で終わりです」。そのまま引退することも考えていたが、母の言葉が甲斐さんを引き留めた。

「『あんた、もっと頑張りいよ。ここまで来たならトライアウト受けりい』って言われて、仙台に行きましたね」。NPBから声はかからなかったが、独立リーグからの誘いはあった。それでも将来のことを見据えて断りを入れた。セカンドキャリアは教員の道に進むことを決意した瞬間でもあった。

 ウインドブレーカーを着てグラウンドに出る季節になると、毎年のように“10分足らずの出来事”がよみがえる。「ドラフトや戦力外の時期になると『あー』って思い出すと同時に、今の野球界に何かしら貢献せないかんなって思いますね」。今ではノックバットを握る毎日。野球を通して何を学ぶか――。熱い気持ちを胸に生徒と接する甲斐さん。寒空の下で12年前のことを遠い目で懐かしんだ。

(飯田航平 / Kohei Iida)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY