ドラフト候補にも挙がらぬ大学時代 川尻哲郎氏の心を変えた同期の指名「びっくりした」

元阪神・川尻哲郎氏【写真:山口真司】
元阪神・川尻哲郎氏【写真:山口真司】

小池秀郎、高津臣吾が台頭…川尻哲郎氏は亜大で3番手の存在だった

 阪神でエースとして活躍するなど、通算60勝を挙げたサイドスロー右腕の川尻哲郎氏は、亜大では通算4勝のオーバースロー右腕だった。その4勝も1年時にマークしたもので、2年生以降は勝ち星を挙げられなかった。理不尽な上下関係などもあって、気持ち的に本気になれない時期があり、その間に同期にも抜かれてしまった。プロからも見向きもされなかったそうだが、野球を諦めることはなかった。それどころか、ライバルのドラフト指名に奮い立ったという。

 大学1年時に4勝をマークした川尻氏だが、その後は勝ち星を得ることはできなかった。「僕は血液型がO型なんで、性格がけっこうあっけらかんとしているところがあるんですよ。いろいろきついことがあっても、まぁ寝たら忘れるみたいな。大学には野球が好きだったから入ったわけで、多少、厳しいのはしょうがないだろうなって思っていたから、そんなにきついと思うことはなかったんですよ。途中くらいまでは……」。

 理不尽な上下関係の積み重ねなどが、野球への情熱の方を徐々に失わせていったという。「あんまり興味が、というか……。逆に1年の時に勝っちゃったんで、こんなものかって思っちゃったのもあったかもしれないです」。2年以降、同期の左腕・小池秀郎投手(元近鉄、中日、楽天)と、右サイドスローの高津臣吾投手(現ヤクルト監督)が頭角を現した。「小池、高津がけっこう出て、自分を抜いてバーンと行っちゃったんでねぇ……」。

 その間に遊びの方に目も向いた。「練習には出るけど、それまでは(寮に)帰ってこないとか、フラフラしていたというか、朝練とか寝坊していかなくて正座させられたり、いろいろ生活にも問題があったというか……」。上級生に目をつけられるのも覚悟の上だったそうだ。「多少、蹴られたりグラブで殴られたりとか、そういうのはよくありましたよ。でも、多少やられたってね、慣れってこわいですよ。まぁ普通に自分なりにやっとけばいいかなっていうようなね」。

 そんななか3、4年になってからもう一度奮起したという。「せっかくだから、やれることだけはやっておこうと思ってね。小池と高津にも何とかついていってやろうと思った。社会人にも行きたかったし、野球で行きたかったっていうのもあったし……」。1年時は同期で川尻氏が抜けた存在だったし、その自負も当然あった。「でもね、小池や高津の球を見ていれば、ブルペンで一緒に投げているから、ちょっと違うなぁみたいには思うわけですよ」。

高津の3位指名に驚き「社会人で頑張れば、チャンスがあるのかなって」

 しかし、それで気持ちを切らすことはなかった。「小池か高津が投げられない時ってたまにあるじゃないですか。そういう時に先発したりして、けっこう抑えていたんですよ」。川尻氏が大学4年の1990年、亜大は東都大学野球リーグで春秋連覇。6月の全日本大学選手権も優勝した。「大学選手権も神宮大会(亜大は2回戦敗退)も小池と高津が投げて、僕は投げていないと思う。僕はリーグ戦で投げたくらいですよ」というが、その時は横道にそれなかった。

 エース左腕の小池は1990年ドラフト会議の超目玉だった。西武、近鉄、ロッテ、日本ハム、阪神、ヤクルト、中日、広島の8球団が1位入札で競合した(ロッテが交渉権獲得も入団拒否、1992年ドラフト1位で近鉄入り)。高津はヤクルトから3位指名され入団した。同期の2人にスポットライトが当たる中、川尻氏は「プロからは全く話はありませんでした。そんな選手じゃなかったんでね」と話す。

「プロはある程度、力のあるボールがあって特徴がないとね。すごい緩急をつけられるとか、すごい変化球があるとか、真っすぐが速いとかがないと行けない世界ですからね。コントロールがいいだけじゃ駄目。あの時の僕は球も130キロくらいしか出ていませんから、そりゃあ無理ですよ」。ただし、高津のヤクルト3位には奮い立ったという。

「小池は(プロから指名されると)わかっていたけど、高津の3位にはびっくりしましたね。コントロールはいいけど球は速くなかったですからね。高津でプロに行けるのなら、自分も社会人で頑張れば、もしかしたらチャンスがあるのかなって思いました」。大学で野球を諦めることなく、何とかプレーを続けたことで川尻氏は社会人野球の日産自動車入りすることもできた。まだ終われない。高津に負けられない思いもプラスされ、さらに上のレベルを目指すことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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