阪神からの扱いに不満「俺もういらないですよね」 1勝6敗も…メジャー移籍直訴で騒動
川尻哲郎氏は“隔年”で活躍…「日米野球の次の年が良くない」
復活したが、また……。阪神などで活躍した右腕・川尻哲郎氏は1年置きに成績が変わる傾向にあった。プロ4年目の1998年にノーヒットノーランを達成するなど10勝をマークしたが、野村克也監督体制になった1999年は3勝。2000年は10勝を挙げたが、2001年は1勝に終わった。「僕はね、日米野球の次の年が良くないんですよ。(試合が)11月まであって、疲れちゃうんですよ……」。2001年オフにはメジャー移籍騒動もあった。
野村体制になった1999年、川尻氏は18登板で3勝5敗、防御率4.52だった。4月は3勝0敗だったが、その後は勝てず、2軍落ちも経験するなど不本意なシーズンだった。プロ6年目の2000年は復活した。開幕は2軍でシーズン初登板の4月19日の巨人戦(東京ドーム)も4番手で打者1人に投げただけ(1/3回を無失点)だったが、黙々と投げた。4月22日のヤクルト戦(甲子園)では2番手で2回1/3を無失点。約1年ぶりの白星をつかんだ。
5月に入って、リリーフだけでなく先発でも起用され、5月下旬からは先発ローテーション入りした。チームが最下位に低迷するなか、勝ち星を積み重ねた。26登板で1完封を含むチームトップの10勝7敗、規定投球回もクリアして防御率3.17。不調の前年から巻き返した。「前の年(1999年)は1年間、休んでいたみたいな状態だったから復活しているんですよ、体を鍛え直したりしてね。ノムさん(野村監督)の時もそういうことがあったんですよね」。
しかし、2001年は再び不振に陥った。開幕当初から黒星地獄にはまり、5月18日のヤクルト戦(神宮)に先発して6敗目を喫したところで2軍落ち。6月下旬に1軍復帰後はリリーフに回り、7月14日の中日戦(甲子園)に5番手でマウンドに上がり、1回無失点で1勝目を挙げたが、7月下旬に再び2軍となって、その後は1軍に戻ることはなかった。21登板で1勝6敗、防御率6.38でシーズンを終えた。
「調子が良くなかったってことだと思う。やっぱりちょっとでも良くないとプロは抑えられませんから」と話す。その上で付け加えたのが「日米野球の次の年が良くない」というものだ。当時は2年に1回のペースで開催されており、「その時期まで投げちゃったら疲れちゃうんですよ。投げすぎちゃっているから」と“自己分析”。確かにそれに合わせるように川尻氏の成績は1年置きに上下した。
2001年オフにMLB移籍目指すも立ちはだかった壁…決めた阪神残留
1996年に13勝をマークして日米野球に出場したが、翌1997年は5勝14敗2セーブに終わった。1998年は10勝で日米野球でも活躍したが、1999年は3勝5敗。2000年は10勝で日米野球に出場したものの、2001年は1勝6敗と苦しいシーズンになった。日米野球ではいずれも好投したという共通項もある。特に1998年は8回1/3を無失点の快投を披露し、そのオフには阪神球団にメジャー志望を伝えていたという。
そんな中、2000年オフには阪神・新庄剛志外野手がFA権を行使してメッツに移籍した。「あの年の日米野球に新庄も出ました。メジャーに行きたいという話は前から知っていましたよ。『新ちゃん、どんな感じなの。行くの。行くんだったら頑張ってね』みたいな感じで話していました。僕も行きたかったですけどね」。FA資格なしの川尻氏がメジャーに行くにはポスティング制度を利用するしかなかったが、当時はその壁がとても厚かった。
新庄がメジャーに移籍して1年後の2001年オフ、川尻氏はもう一度、ポスティングによるメジャー移籍を目指した。1勝6敗に終わった年に敢えて熱望した。「阪神も別に俺のこといらねーだろみたいに思っていましたしね。(7月に2軍降格後、1軍から声がかからず)使ってくれねーしって、なんていうか、ちょっとふてくされているようなイメージ。“俺、もういらないですよね。行っていいすか”、のような感じですよ」。ところが、騒動になった。
そのオフ、12月に入ってから阪神監督が野村克也氏から星野仙一氏に代わり、流れも変わった。「星野さんと話す機会を作ってもらって『お前の好きなようにしろ』と言われました。(メジャーに)行ってもいいし残ってもいいみたいな感じだったんですけどね」。結果、阪神残留を決めた。「(メジャーから)ある程度の評価、金額が出ていたんですけど、その後に(阪神)球団からこうしないと行かせないとか、いくら入れていけとかいろいろあったわけですよ」。
メジャーの夢を叶える絶好のチャンスだったが「結局、僕がうまく段取りをつけられなかったから残ることになったんです」と何とも言えない表情で話した。「挑戦したかったけど、こういうのもやっぱり縁なんでね」とも付け加えた。令和の現在は海を渡る選手が増加傾向にある。各球団も寛容になってきている。時代が違えば、川尻氏のケースも、展開は違っていたのかもしれない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)