五輪金メダル、新人王獲得も…後悔募る自らのキャリア 誤った決断、好打者の“末路”

オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】
オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】

熊野輝光氏は2024年に阪神スカウト退任…今年から四国IL・香川監督を務める

 高校時代に甲子園出場を果たし、大学では全日本大学選手権優勝、日米大学選手権出場などを経験。社会人時代には五輪で金メダルを獲得し、プロ野球では新人王、スカウトとしても辣腕を発揮した。そんな輝かしい実績の持ち主が元阪急・オリックス、巨人外野手の熊野輝光氏だ。2024年限りで阪神スカウトを退任し、2025年シーズンからは独立の四国アイランドリーグplus・香川オリーブガイナーズの監督を務める。その野球人生は故郷・香川で山を駆け巡っていた頃から始まった。

 阪神スカウトとしての最後の仕事が2024年のドラフト1位・伊原陵人投手(NTT西日本)、同2位・今朝丸裕喜投手(報徳学園)の担当だったことでも知られる熊野氏は1957年8月28日生まれ。香川県木田郡三木町出身で「実家は農家というか果樹園、ちょっと段々畑的だった」。子どもの頃からそこを走り回り、自然と脚力などがアップした。「足は速かった。小学校(三木町立氷上小学校)の時は1500メートル走とかソフトボール投げとかスポーツテストで100点とって賞状をもらいましたね」。

 野球との“出会い”は小学校入学前。「父がグラブとバットとボールを買ってくれました。近くの草野球チームに父も入っていたので、ついていってキャッチボールとかしていました」。小学校低学年の頃には大人に混じって草野球の試合にも出ていたそうだ。「人数が足りない時にね。外野を守ったりしたけど、ちゃんと捕れていましたよ。自分でもうまいなって思っていました」と笑いながら振り返った。

「同級生とか仲間でやりはじめたのは小学校5年くらい。野球が好きなヤツを集めて、みんなでチームを作ってね。大会とかそんなのは全然ない。試合は他の小学校のところに行って申し込みました。“次、やろうぜ”みたいな感じでね。だから、ちゃんと野球をやりはじめたのは中学校からですね」。1970年、三木町立三木中学校の軟式野球部に入部した。「監督の庄司先生は、香川県の中学の中では有名な方でした。もう亡くなってずいぶんになりますが、僕の一番最初の恩師です」。

 その庄司監督に言われたのが左打ちへの転向だった。「右利きですし、それまではずっと右だったんですけど『足が速いから左でやってみろ』ってね。嫌だったけど、すぐに何か打てるようになったんですよね。で、1年の時から背番号をもらった。15番かな。サードを守って試合にも半分くらいは出ていました。2年生からレギュラーだったかな。サードで1番か3番を打っていたと思う。3年の時はキャッチャー。その年は右でも打ってスイッチヒッターでした」。

高校で左打ちに専念したワケ「両方練習しないといけない」

 中学時代に鍛えられたのが後につながった。「中学最後の夏は県大会には出られなかったんですけど、それ以外はまあまあの成績でした。県で優勝したりもありました」。熊野氏も俊足、強肩で打撃もいい選手として知られる存在で、高校進学時にはいくつかの高校から声もかかった。「打つ方もそれなりに打っていましたからね」。しかし、左右打ちは中3だけで終わり、高校(志度商)からは左打ちに専念することになった。

「高校になったら、ある程度左でも長打が出るようになったんでね。それにスイッチだったら、両方練習しないといけないじゃないですか。僕はそんなに練習したくなかった。練習量が増えるのが嫌だったんですよ」と話したが、さらに笑みを浮かべながら、自身についてこうも“分析”した。

「右も自信があったし、もしも右でずっとやっていればプロでももうちょっとすごいバッターになれたんじゃないかなって思うんですよねぇ。(プロ通算50本の)ホームランももうちょっと打てたのではってね。(DeNAの)牧(秀悟内野手)みたいな感じで右方向にも大きいのが打てましたからね。まぁ、後になって右にするのはもう無理でしたけどね」

 プロ野球は巨人ファンだった。「(中継は)ジャイアンツ戦しかなかったですからね。僕は土井(正三)さんが好きでね。渋いな、あんな守備をしたいなって憧れていました。僕がオリックスの時(の1991年)に土井さんが監督で来られた時はワクワクしていたんですけど、その時の僕は外野手だったんでね、内野手だったらなあって思いましたよ」。すべてが思い通りに進んだわけではないものの、熊野氏の野球人生は少年時代から着実にステップアップしていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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