渋々書いた色紙、新聞に載って生じた“誤解”…嫌だった異名「四国のドクターK」

元中日・野口茂樹氏、1992年ドラフトで中日が3位指名
愛媛・丹原高の左腕・野口茂樹投手は1992年のドラフト会議で中日から3位指名を受けて、プロ入りした。3年春に左肘を痛めてから、本来の投球ができていなかった中での指名には「うれしいというより、ホッとした感じでした」。故障前までは1試合19奪三振など超絶投球を連発し“四国のドクターK”と評されたが、入団後に、その異名に関して思わぬ事態が発生。「けっこう面倒くさかったです」と苦笑しながら打ち明けた。
1992年のドラフト会議は11月21日に東京・新高輪プリンスホテルで行われた。注目を集めたのは星稜・松井秀喜内野手で4球団が競合して、巨人が交渉権を獲得した。その年の中日ドラフト3位が野口氏だ。140キロを超える直球に加え、縦に落ちるカーブが絶品で三振の山を築いた左腕だが、3年春に左肘を痛め、準決勝敗退の夏の愛媛大会は、高校生活最後ということで完治せぬまま無理して投げたに過ぎない状態。そんな中での指名だった。
左肘は万全ではなかったが、野口氏は進路をプロ一本に絞っていた。「もうその考えでいました。社会人、大学は(頭に)なかったので話がきても(丹原の井上)監督が断っていたと思います。あの時、肘のことはどう思っていたのかなぁ。治ればって感じですかね。まぁ、僕の中ではプロ野球選手になるもんだと、ずっと思っていました。希望球団は特になかったです。とにかくプロになれることが大事だったんでね。だから、無事指名だけしてもらえればってね」。
中日は星野仙一氏の懐刀としても知られる早川実氏が担当スカウトで、初めて見た時から野口氏にゾッコンだった。左肘痛発症後に練習試合での登板がなくなり、生チェック機会も減り、他球団スカウトが不安視する中でも「治れば必ず出てくるピッチャー」と将来の大器としての評価を一切、変えなかった。ドラフト前には指名する意向も示していた。
ルーキー7人中、高卒は自分だけ「話相手がいない」
野口氏は「ダイエーも途中までは興味を持ってくれたんですけど、春以降は中日が一番熱心だったですね。だけど(ドラフト)当日は、本当に指名してくれるのだろうかと思いながら、いましたよ。やっぱり絶対はないんでね」と振り返る。指名されたと分かった時は「ホッとしたのが第一かなぁと思います。そのあとにうれしさがきましたけどね」と話す。「何位かは聞いていなかったので3位もうれしかった。肘を壊して3位なんて十分じゃないですか」とも付け加えた。
誤算を言えば、ドラフト同期が1位・佐藤秀樹投手(三菱重工横浜)、2位・鶴田泰投手(駒大)、4位・吉鶴憲治捕手(トヨタ自動車)、5位・伊礼忠彦外野手(九州共立大)、6位・古池拓一投手(松下電器)、7位・神野純一内野手(愛工大)と野口氏以外、高卒選手がいなかったことだ。「つらい立場でした。入ってからも、話相手がいないんでね。みんな先輩ですから。1年間、後輩も同学年もいない。それはきつかったですよ」。
そんな最年少左腕が、いきなり直面したのが“四国のドクターK問題”だ。「記者の方に色紙に“四国のドクターK”って書いてくださいと言われて、それは書けないでしょって言ったんですけど、いや書いてくださいって……。で、嫌々書いたヤツが新聞に載ったんです。それを先輩方が見て、言われたんですよ。『四国のドクターKって自分で書いたヤツがいる、そんなの自分で書くか』ってね。そうじゃないですと説明しましたけど、あれはけっこう面倒くさかったですよ」。
名古屋生活は初めてだし、高校まで自宅通いだったため、寮生活も初めて。「愛媛以外はどこも知らなかったし、もう右も左も何も分からなかった」という状況下での最初の思わぬ“試練”だった。野口氏は2001年に最多奪三振のタイトルを獲得するなど、プロでもドクターKぶりを発揮することになる。今でこそ笑って話せるが、当時は「四国のドクターK」と言われるのが、とにかく嫌だったそうだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
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