誰にも言えない左肘の痛み…体重オーバーの1年目 18歳が戦った“地獄の日々”

元中日・野口茂樹氏、出世番号「57」に気合十分で1年目スタート
試練だった。元中日左腕・野口茂樹氏のプロ1年目(1993年)は左肘痛との闘いからスタートした。愛媛・丹原高3年(1992年)春に痛めて以来、まだ万全ではない状態。にもかかわらず、宮崎・串間2軍キャンプではブルペン入りして投げていたという。「串間は寒かったし、肘は痛いし、でもドラフトで入って、いきなり痛いとは言えないでしょ。(他の選手のことなど)周りを見る余裕もなかったですねぇ」と苦闘の日々を思い起こした。
1992年のドラフト3位で中日入り。背番号は57に決まった。「(担当スカウトの)早川(実)さんに、57は彦野(利勝)さんがつけて、その前には平野(謙)さんもつけていた出世番号と聞いていたから、いいなって思っていました」。57番の先輩2人はいずれも、その番号時代に外野手でレギュラーの座をつかんだ名選手。ポジションは違えど、縁起もいいし、後に続こうと気合も入ったようだ。
しかしながら、コンディションは今ひとつだった。高3春に痛めた左肘が治りきっていなかった。「春の(串間2軍)キャンプの時もまだ痛かったですからね」。それでも「痛いとは言わなかった」という。ドラフト3位入団の新人の立場では、それを言ってはいけないと自分で判断した。「いきなり痛いなんて言えないでしょ。痛かったけど、投げないといけないと思ったんです」。その状態でブルペン入りしていたわけだ。
「あの時の串間は寒かったなぁ。焚き火じゃないけど、ドラム缶に焚きながらねぇ。投げたけど、痛かったなぁ。1年目の春のキャンプは本当に痛かったですねぇ……」と当時の痛みを思い出したように話した。「肘が痛くてほぼほぼトレーニングもせずに体重オーバーでキャンプに行ったので(トレーニング担当の)村田(広光)先生とマンツーマンでの走り込みもありました。特別メニューで体を絞らなければいけないということでね」。
自分のことで精一杯。プロのレベルとか、周りの選手の動きとかを考える暇もない。「そんな余裕なんてなかったですよ。投げて痛いなと思って、あとは走っているだけでしたから」。野口氏にとっての初キャンプは、それこそ地獄の日々だったようだ。結局、2軍戦での登板も5月までなかったという。「それまでも痛いとは言っていないと思いますけどね。まぁ、投げているボールを見ていれば(普通の状態ではないことは)わかると思うんですけどね」。
「肘を守るためにテークバックを変えた」球筋にも表れた変化
ただし、2軍戦で投げるようになった頃も完全に治ったわけではなかった。「暖かくなって(試合で)投げられるようになったけど、痛みとはお付き合いしながら、(肘が)痛くない投げ方を覚えていくというか、大丈夫のようなところを見つけながらね。5月くらいまでは屋内で(2軍投手コーチの)稲葉(光雄)さんとかとずっと練習していましたけどね」。そうしているうちに投球フォームも変わっていったという。
「活躍しない限り、いろんな人から(アドバイスを)言われますからね。みんな変わるでしょ。でもね、自分が投げているとわからない部分、気付かない部分もある。今みたいにすぐ、映像で見返したりできない時代ですから。言われたら『ハイ』がすべての時代でしたけど、教えてもらってよかったこともあったし、それも良くも悪くもって感じですかねぇ」
高校時代に大きな武器だったカーブは、プロになってスライダーに変わった。「カーブだと言ってブルペンで投げていたら、これはスライダーって言われたんでね。でも球質もだんだん変わっていったんですよ。数年してからスライダーの軌道に変わりました。高校の時のカーブはもう投げられなくなった。どこら辺で変わったかなぁ。肘を守るためにテークバックを変えたりとかすると変わるんでね」。
プロ入り以降、試行錯誤の毎日だったわけだが、1年目に関してはだんだん状態が上がっていったという。「僕の1年目にファームは優勝したんですよ。それでジャイアンツとファーム選手権(1993年10月10日、福井、試合は巨人が3-0で勝利)があったんですけど、その時に確か打者1人にだけ投げさせてもらったと思う。それでシーズンが終わった。肘もだいぶよくなったし、そういう大事な試合でチャンスをもらえてありがたいと思いましたね」。
地獄の春のキャンプを何とか乗り越え、左肘痛にもそれなりに対応するようになり、プロの一員として前進した。少しばかり手応えもつかみ始めたのだろう。「2年目(1994年)は何とか1軍に行きたいなというのがありましたね」と話した野口氏は、その年、米国留学でステップアップすることになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
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