怯え続けた戦力外「秋前になるとビクビク」 通告で体に異変…感じた“人間の弱さ”

鵜久森淳志さんは2015年限りで日本ハムを戦力外となりヤクルトへ
2004年ドラフト8巡目でプロの世界に飛び込み、日本ハムとヤクルトでプレーした鵜久森淳志さん。14年間で2度、戦力外通告を受けた。2軍では結果を残しながら1軍の壁は高く“2軍の帝王”と呼ばれたこともある。「3年目くらいから、秋前になるとずっとビクビクしていました」と厳しい世界の現実を明かした。
1度目の通告は、日本ハムで11年間を過ごした2015年オフだった。1軍ではなかなか結果を出すことができず、後輩たちがどんどん台頭する。戦力外を受ける仲間たちも毎年見てきた。ついに自身にも“そのとき”が訪れ「『だろうな』って感じでした。3年目くらいからずっとビクビクしていました。フェニックスリーグ中の宮崎から帰らせられるんじゃないかとか」。
「心残りしかなかった」と野球を辞める選択肢は考えもしなかった。もう一度チャレンジしようと燃えていた。しかし体は正直だ。戦力外通告を受けた後に体重は10キロ減。体を動かし、食事を食べているのに、だ。「人間って弱い。野球ができなくなるかもしれないという何かがあったんでしょうね。小学校からやってきて、何かが絶たれるかもしれないってなると……」。気持ちは前向きなはずなのに、体はどん底だった。
そんな鵜久森さんに救いの手を差し伸べたのがヤクルトだった。移籍1年目の2016年は46試合で4本塁打、9打点とキャリアハイの成績を残した。「自分と戦っていたのが、誰かのために打ちたいとかそういう気持ちに変わっただけでめっちゃ楽になりました。獲ってもらって、チームのためになんとか活躍しようというのがいい集中力になりました」と話すように、“再生”の裏には気持ちの変化があった。
2018年の戦力外で現役引退を決意「正直もう無理だなと思っていました」
またセ・リーグで代打の出番が増えたこと、真中満監督が相手投手の右・左に関係なく起用してくれたことも、気持ちの安定を生んだ。「『真中さんすげえな、鵜久森をファーストで使うのか』って自分で思っていました」と笑うが、意気に感じて結果につなげた。
2018年は19試合の出場に終わり、同年オフに2度目の戦力外となった。このとき31歳でまだまだ脂の乗った年齢に思えるが、本人は違った。「膝も腰も肩も痛い、結構体が限界で、正直もう無理だなと思っていました。だからそうなったときに自分の野球人生は終わりかなと」。家族や周囲の人に最後の勇姿を見せるためにトライアウトを受けたが、すでに現役引退を決断していた。
引退後にソニー生命保険株式会社でライフプランナーとなり、早くも7年目となる。仕事の傍らで、学生野球資格回復を果たし、母校・済美高などで高校生の指導も行っている。「まだ打って見せられるので、打撃の技術は伝え続けたいですね」と、いまだに健在の豪快な打撃は学生たちの道しるべとなっている。
1軍では通算256試合で打率.231、11本塁打、47打点だったプロ生活を「最初の8年間くらいは相当しんどかったですね」と振り返る。しかし野球界を離れ、徐々に考え方も変わってきたという。「毎年切られる世界で、よくやったなという感じです」。生き抜いた14年間は誇りだ。
(町田利衣 / Rie Machida)
