巨人主砲への死球で苦情殺到「外に出るのも危ない」 あらぬ“故意”疑惑に苦悩

元中日・野口茂樹氏、巨人・落合への死球で“騒動”に
元中日投手の野口茂樹氏にとって、プロ4年目の1996年8月は良いことと悪いことが重なった時期だった。8・11巨人戦(東京ドーム)でノーヒットノーランの偉業を達成して大ヒーローになった一方で、8・31巨人戦(ナゴヤ球場)では巨人の主砲・落合博満内野手に死球を与えて骨折させてしまい、名古屋市内の合宿所には苦情電話が殺到。危険回避のため、数週間は球場などへの往復以外、外出も控えたという
6四球を出しながらも史上64人目のノーノーを達成した野口氏は「自信にはなりましたよ。でも、その後から打たれまくったんですよねぇ」と無念そうに振り返った。偉業から中5日で先発の8月17日の阪神戦(ナゴヤ球場)は3回2/3、5失点でシーズン2敗目。続く8月23日の横浜戦(横浜)は2回1/3、4失点でKOされて3敗目を喫した。「8月の月間(MVP)を狙えるかと思ったら、2試合連続で打たれて……」。
野口氏は8月30日と31日の巨人戦(ナゴヤ球場)にはリリーフで登板。30日は3番手で2回を投げて無失点に封じた。31日は3-4の7回から4番手で投げ、2回無失点に抑えたが、その1イニング目に“事件”が起きた。先頭の投手の水野雄仁、1番・仁志敏久内野手に連続四球と課題の制球難を露呈。2番・川相昌弘内野手にバントで送られ、左打者の3番・松井秀喜外野手を何とか空振り三振に仕留めた後だった。
2死二、三塁で打者は4番の落合。その初球だ。死球。落合は内角球をよけようとして打席で倒れ込んだが、ボールが左手に当たった。左手小指の骨折だった。野口氏はマウンドで頭を下げたが、巨人ベンチから怒りの声が上がり、中日ベンチが気色ばむシーンも。野口氏は気持ちを懸命に切り替えて、次打者のシェーン・マック外野手を空振り三振に打ち取り、ピンチを切り抜け、次の8回も点を許さなかったが、その後が大変だった。
「寮に帰ったら、巨人ファンからの苦情電話がすごかったんです。僕は電話に出ませんでしたけど、電話をとった人が『“野口を出せ”とか言っているぞ』って。昔は何かあったら寮に電話がかかってきていました。そんな時代でしたね。『外に出るのも危ないぞ』と言われて、数週間は外出も控えました」。加えて、試合中もそうだったが、巨人サイドから故意死球を疑われたのがむなしかったという。
「インコースに厳しく投げたら、ひっかかっちゃったんです」
「落合さんもずっとそう思っていたみたいで……。でも、あれはインコースに厳しく投げたら、ひっかかっちゃったんです。ひっかかってラインのところに行ったのを(落合さんも)踏み込んできて、どっちもハマってしまったんですよ。僕の真っすぐはちょっと真っスラするんで食い込むんです。たぶん、よけただけだったら胸元で終わったはずです。一瞬(踏み込んで)打ちに行った分、当たった。だからそれをわざとと言われるのはきついんです」
ただでさえ、制球難に苦しんでいたのに、大ピンチで右の強打者の落合を迎え、力みもあった。「ランナーが三塁にいるのに、当てに行くことはありません。ワイルドピッチになる可能性がありますから。満塁策をとる場面なら、外に外して四球にしていたと思います」とも野口氏は言い切った。
落合は翌9月1日から戦線を離脱し10月19日からのオリックスとの日本シリーズで復帰。その後、日本ハムに移籍したが、左手小指骨折以降、調子は上向かず、2年後の1998年に現役を引退した。そんな流れも野口氏にとってはつらいものだったようだ。「そういうのって、ちょっと自分でも残るんですよねぇ。わざと当ててないのに、けっこう周囲からもいろいろ言われて……」。
後に中日・落合監督と野口投手の関係にもなるが、この死球問題に関して両者で話すことはなかったという。「(死球の際は)球界を代表するバッターですから、そりゃあ気になりました。でも(死球の)次の日はおられなかったし、直接、落合さんに謝りには行けなかったので、トレーナーを通じて謝っておいてくださいというのは伝えました。伝わっていなかったのかもしれませんけど……」と野口氏は、またむなしそうに話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
