ノーノー翌年に「肩がパキッ」 苦しむ0勝&6.57…ごまかし利かずもまさかの“功名”

中日時代の野口茂樹氏【写真提供:産経新聞社】
中日時代の野口茂樹氏【写真提供:産経新聞社】

元中日・野口茂樹氏、6年目は14勝9敗で防御率2.34と飛躍

“怪物”にも対抗した。元中日、巨人投手の野口茂樹氏はプロ6年目の1998年、2.34で最優秀防御率のタイトルを獲得した。課題だった制球力がアップし、27登板で初の2桁、14勝9敗の成績を残した。前年の5年目に左肩痛に苦しんだこと、新任の宮田征典投手コーチの指導とフォーム修正、スーパールーキー・川上憲伸投手の存在が飛躍につながった。さらにこの年は甲子園春夏連覇を果たした横浜高・松坂大輔投手の影響も受けたという。

 プロ4年目の1996年8月11日の巨人戦(東京ドーム)でノーヒットノーランを達成した野口氏だが、その年は5勝5敗、防御率3.23。5勝はすべて完投で非凡なところを見せつつも、制球難などもあり、まだ覚醒と言える状態までには至っていなかった。ナゴヤドーム元年の5年目は逆に下り坂。左肩痛で出遅れて11登板、0勝1敗、防御率6.57に終わった。「キャンプの途中くらいかなぁ、肩が痛いなぁって。最後は何かパキッとなって……」。

 左肩はプロ2年目のロッキーズ傘下1Aに留学中に痛めたことがあった。「アメリカではアスピリン(解熱鎮痛薬)をのんで治ったんですけど、5年目の時は長引きました。肘だったら痛くてもごまかしが利いたんですけど、肩は“ごまかし方”がわからなくて戸惑っていたと思う。肩が痛くて2軍でも(シーズン)途中まで投げていなかった」。1軍でのシーズン初登板は8月までずれ込み、11登板中、7試合に先発で起用されたが、白星はつかめなかった。

「ノーヒットノーランの次の年ですからね。想定外の1年だったですね」と話したが、一方で「5年目に休んだおかげなのか、(6年目は)ピッチングのモデルチェンジになったんですよね」ともいう。「そこまでは強引に投げていたのが、(1軍投手コーチに)宮田さんが来て『低めに投げればいい』と言われた。スピードは138(キロ)くらいにちょっと落ちたんですけど、低めにボールが集まるようになって、ピッチングのスタイルが変わったんです」。

 大きなプラスになった。「ピッチングが楽になったんです。それまでは四隅のギリギリを狙っていたから、ずれれば完全にボールじゃないですか。そこで甘くなると長打になっちゃう。でも低めのボールというのは甘くなっても低いゾーンになって、出し入れが楽。ここから上に投げなきゃいい、ここから下に投げればいい。ただそれだけでシンプルだったのでね」。

 自身でもいろいろ工夫した。「足踏みのセットしたのもそう。そうすると余分な力が抜けて、楽に投げられたんです。(1軍バッテリーコーチの)芹沢(裕二)さんだったと思いますけど『これで投げたらいいんじゃないの』って言われて、キャンプでずっと続けていたら、すっごいしっくりいくようになった」。これに宮田コーチの指導も重なって、制球難もどんどん解消されていったのだ。

新人・川上の加入が刺激「年下に負けたらいけない」

「ブルペンでは常にバッターに立ってもらうようにした。神野(純一)さんとか代打で出る人にわざわざ来てもらってね。今の高さだったら振る? 反応する? しない? って。神野さんがいなかったら大西(崇之)さんに立ってもらった。バッターも練習になるので真剣にね。力を入れたり、入れなかったり。ここなら振る、振らない、をやっていたらバッターとの駆け引きができる。やみくもにガーンと投げるんじゃなくて考えるようになりました」

 加えて新人・川上の加入も刺激になったという。「四国の後輩ですし、その時くらいじゃないですか。1軍に定着する年下ができたのは。憲伸はゴールデンルーキー。年下に負けたらいけないな、という気持ちが、ちょうどうまい具合にね。オールスターも一緒に出たし、防御率も最後の最後で憲伸と争いましたしね」。この年の川上は26登板、14勝6敗、防御率は2.34の野口氏に次ぐセ・リーグ2位の2.57。年下のライバルの存在もプラスに働いたわけだ。

 さらに年下右腕の横浜高・松坂の投球にも影響されていた。野口氏は8月30日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)に先発し、延長12回5失点完投。12回に2点を失って3-5で敗れ、負け投手になったが、打者50人、203球を投げた。これが松坂と関係大ありという。「松坂が(夏の)甲子園(準々決勝のPL学園戦)で延長(17回、250球)を投げたじゃないですか。それを見た星野(仙一)監督に『お前、やれるか』と言われて『僕はスタミナ楽勝です』と言ったんです」。

 延長12回、203球完投について、野口氏は「たぶん、その話をしていたからだと思います。星野さんは僕に勝ちをつけさせたかったんだと思うんですよ」と推測する。「スタミナはあったし、勝っていたらよかったんですけどねぇ。負けたら203球を投げてもかっこよくないですよ。せめて引き分けだったらね。ブルペン投球も合わせれば300球は投げていたから帰りのタクシーで全身つりました。体重は2キロしか痩せなかったし、次の日には戻っていましたけどね」。

 野口氏以来、1試合200球以上を投げた投手はいない。「ホント、勝っていればねぇ……。でも、あの試合、代えてくれとは全く思いませんでした。負けていたら別ですけど(同点で)勝つか、負けるか分からない。僕はどっちかというと勝ち負けがつくまで投げたい方だったんでね」。コントロールが見違えるようによくなり、8月30日の試合で示したようにスタミナもバッチリ。プロ6年目の1998年はすべてにおいて野口氏がレベルアップした年だった。

 星野監督、宮田コーチ、芹沢コーチ、神野、大西、川上、そして松坂も……。いろんな人に関わり、支えられ、刺激を受けながら野口氏は自らの技量を進化させた。翌1999年のプロ7年目シーズンはリーグMVPにも輝く。日本球界屈指の左腕に成長していった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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