失った球速…130キロ台連発でコーチに「真面目に投げろ」 “最終登板”で飛んだ肘

2001年に甲子園で登板する中日時代の野口茂樹氏【写真提供:産経新聞社】
2001年に甲子園で登板する中日時代の野口茂樹氏【写真提供:産経新聞社】

元中日・野口茂樹氏、キーパーソンは星野監督と中村武志捕手

 元中日左腕の野口茂樹氏は、現役時代における自身の「キーパーソン」として、恩師の星野仙一氏と、先輩捕手・中村武志の名前を挙げる。星野監督には厳しい指導を受けながらもチャンスをもらった。中村捕手に関しては、ヒーローインタビューで連発した「中村さんのおかげです」がすべてで、その存在なくして成長はなかったと思うほど感謝している。その2人が2001年限りで中日を去った。「僕にとっても分岐点でした」と野口氏は表情を曇らせながら話した。

 野口氏は星野監督に厳しく育てられた選手の一人だ。怒られた分だけチャンスももらい、成長していった。プロ9年目の2001年は26登板で12勝9敗の成績を残し、最優秀防御率(2.46)と最多奪三振(187)のタイトルを獲得。3、4月と5月の2か月連続で月間MVP、セ・リーグタイの1試合16奪三振(5月24日、阪神戦=金沢)、8月には4試合連続無四球完投の日本タイ記録をマークするなど、華々しい結果を残した。

 そのシーズンについても「完投も(11で)多かったし、勝ち負けがつくところまで投げさせてもらったというのがあると思う。僕の場合、5回、6回では駄目なんです。どっちかというと立ち上がりがよくない。でも、そのままずーっといって終わってみたら……。2001年もオールスター前までは8勝3敗だから、後半戦は4勝6敗で負け越し。でもそこで10試合も勝ち負けがついているってことですから」。そんな星野監督の起用法にも感謝している。

 バッテリーを組んだ中村に対してもそう。「中村さんのおかげです」は野口氏のヒーローインタビューでのお決まりの言葉だったが「だって、首を振らなかったですもんねぇ」としみじみと話す。「僕はスライダーのワンバンを投げるんで、安心して投げられるのは大きいんです。1回はじかれたら、もう投げられないですから。中村さんは大事な場面でそれを止めてくれるんです。リードも、その通りに投げれば抑えられるんで、僕は投げるだけで済むわけですよ」。

シーズンラスト登板で「肘が飛んだ」…2回1失点で緊急降板

 絶大な信頼関係があった。「そこに投げきれば勝てる、投げきれなかったら打たれる。疑いがないわけですから、ただそれだけ。守ってもくれていますし、投げやすい環境を作ってくれている。それだけで、もうありがたいじゃないですか。途中からは首を振るサインを作られましたけどね。僕が振らないから」。まさに「中村さんのおかげです」だった。「実際、勝っているということはそういうことなんですよ」。それほどまでに野口氏にとっては必要不可欠な存在だったのだ。

 最優秀防御率のタイトル獲得など数字を残した2001年の野口氏も“中村リード”があって成立したものだったが、9月29日の阪神戦(ナゴヤドーム)がそのシーズンのラスト登板になった。先発して2回1失点で降板し、シーズン9敗目となった試合で「肘が飛んだんです」と話す。7回1失点投球で12勝目を挙げた9月22日の阪神戦(甲子園)の時から痛かったという。

「甲子園の時は真っすぐが130後半くらいしか出なくて(投手コーチの)山田(久志)さんがマウンドに来て『真面目に投げろ』って言われました。でも勝っていたし、肘が痛いとは言わなかったんですけどね」。ラストの阪神戦に関しても「投げる前から痛かったけど、言わずに投げた。防御率(のタイトル)がかかっていたのでね。でも(2回1失点で)『すみません、投げられません』と言って降ろしてもらったんです」。

 それで野口氏の2001年は終わったが、その試合が星野監督の下でプレーするのも、中村とバッテリーを組むのも最後になった。その年限りで星野監督は退任。中村は横浜・谷繁元信捕手のFA加入と入れ替わるように、金銭トレードで横浜に移籍した。「僕のキーパーソンが一気に抜けましたからね。まぁ分岐点でしたね」と野口氏は言う。その上、左肘痛が長引いた。プロ10年目の2002年シーズンを前にして試練が一気に押し寄せた。

【画像】中日と“決別” 野口茂樹が決断した瞬間

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