叶わぬ中日エースの願い「駄目だ」 “全盛期”が罠に…始まった「暗黒時代」

中日時代の野口茂樹氏【写真提供:産経新聞社】
中日時代の野口茂樹氏【写真提供:産経新聞社】

元中日・野口茂樹氏、10年目は退寮してホテル暮らし

 流れが悪くなった。元中日エース左腕の野口茂樹氏はプロ10年目の2002年、わずか5登板、2勝1敗、防御率5.00に終わった。前年の2001年は最優秀防御率(2.46)と最多奪三振(187)のタイトルを獲得するなど活躍したが、その年の9月に左肘を痛め、それが長引いた。中日監督が星野仙一氏から山田久志氏に代わった最初のシーズンはリハビリがメインになった。「肘を痛めたことでバランスも崩れたと思う」。苦難の日々が始まった……。

 2001年シーズン限りで恩師の星野監督が退任、絶大な信頼関係にあった中村武志捕手は横浜に移籍した。野口氏にとって大きな存在の2人が一気にいなくなった。その上、9月に痛めた左肘の状態が思わしくなかった。生活環境も変わった。入団以来、9年間過ごしてきた合宿所を出ることになった。「寮は野球をやるには環境がよかったし、もう1年いさせてほしいとお願いしたんですけど、駄目だって言われたのでね」。

 退寮後はホテル暮らしを選んだ。「(名古屋駅前の)キャッスルプラザ、もうなくなりましたけどね。ホテルだとタクシーもすぐつかまるし、新幹線も近くでしたしね」。チーム内で“宇宙人”と呼ばれていたと言われるが「直接聞いたことはないですよ。まぁ寮に9年いたり、ホテルに住むと普通じゃないと思われたんじゃないですか。でも、その分、人にはお金を使っているので何も言われる筋合いはないですけどね。別に悪いことをしていたわけじゃありませんから」。

 野口氏は笑顔でそう振り返ったが、そんな形で始まった節目のプロ10年目、山田中日となった2002年は試練のシーズンになった。1軍で投げたのは9月に入ってから。それまでは左肘痛との闘いだった。「長くかかったですねぇ。まぁ、それまで、ずっと蓄積してやっていましたからね。肘痛で考えたら、けっこう持った方だと思いますよ。でもね、そこら辺の時期ってあまり記憶にもないんですよねぇ……」。

改善していた制球が乱れ…リーグワースト与四球59&与死球9

 9月に1軍復帰後は5試合にいずれも先発。9月15日の広島戦(広島)では8回3失点投球で前年9月22日以来、約1年ぶりの白星をつかんだ。シーズン2勝目は9月29日の巨人戦(東京ドーム)で巨人・上原浩治投手との投げ合いを制したが「そういうイメージもない」と言う。「肘はほぼほぼ治っていたと思いますが、その時は試運転の部分もあったのではないか。とりあえず、しれっと投げたって感じなんですかねぇ」と本当に印象が薄いシーズンだったようだ。

 そこから切り替えてのプロ11年目の2003年は29登板、9勝11敗、防御率4.55の成績に終わった。開幕3戦目の3月30日の巨人戦(東京ドーム)に先発し、3回1/3を4失点で降板。先発ローテ入りはしていたが、3、4月は1勝1敗で防御率7.32と苦しんだ。それでも徐々に数字を上げ、2桁まであと1勝というところまで勝ち星を重ねた。しかし、良くなっていたはずの制球が乱れ、与四球59と与死球9はリーグワーストだった。

 これについて野口氏は「肘を痛めたことでバランスが崩れたと思うんですよね。投げ方とか、いろいろが……」と話す。「結局(最多奪三振のタイトルなどを獲得した)2001年にスピードが出て、そこから今度は落ちるから、投球が変わったと思う。球が速くなった時はよかったんですけど、こうなってくるとね。まぁ、あれが罠だったんですよねぇ……」と何とも言えない表情も浮かべた。

「確か、この年だったと思うけど、(シーズン)最後(の登板)は足も痛かったんです。投げる前にちょっとひねってしまってね。でも、10勝がかかっていたんでね。10勝するか、しないかは大きいので投げたんですけど、負けちゃったんですよ」。その10月4日の横浜戦(横浜)は7回3失点と好投したが、援護に恵まれず11敗目。そういうことも含めて、何かしら歯車が狂いはじめていたのだろうか。「ここからは暗黒時代ですけどね……」。野口氏はポツリとつぶやいた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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