元阪神右腕を育んだ“異種競技”「ガリガリだった」 年間22勝…レジェンドの原点

上田氏は東海大から阪神にドラ1入団…4年目に22勝をマーク
阪神で大活躍した伝説のアンダースロー投手が上田二朗氏(野球評論家)だ。東海大から1969年ドラフト1位でタイガースに入団。プロ1年目から頭角を現し、4年目の1973年には22勝をマークするなど、左腕・江夏豊投手との“両輪”で先発にリリーフにフル回転して虎を支えた。そんな右腕は、和歌山県田辺市出身。山や海での“遊び”に夢中だった小学校時代は野球と相撲の“二刀流”でもあったという。
和歌山・南部高2年夏すぎに下手投げ投手となり、東海大で成長し、ドラフト1位右腕になった上田氏は1947年7月6日生まれ。田辺市立田辺第三小学校時代の野球はあくまで遊びの延長だった。「小学校の3年生とか4年生の頃かなぁ、三角ベースで友達と遊んでいましたね。自分たちで作ってきた竹バットと庭球で。学校の科目の間の休み時間、あの頃は5分の休憩かな。そんなわずかな時間でもやっていましたね」。
学校から帰ると遊びの“主戦場”は山や海。「山では自分たちだけの隠れ家を作ってね。探検もやりましたね。洞窟を探しに行こうってね。昔はあったんですよ、大きい洞窟、小さい洞窟。コウモリとかもいましたけどね。で、どこどこを見つけたって紙に書いて地図も作るわけですよ。海には5月頃から飛び込んで潜って貝をとったり、昔は海パンなんてなかったんで、黒ふんどしをつけてね。とにかくひたすら遊びましたよ」と懐かしそうに振り返った。
小学校5年生からは“遊び”の野球にも力が入り出したという。「学校の野球部らしきものに入ったんです。ポジションはピッチャーが主なんでしょうけど、いろんなところをやりましたね。決められたものはなかったんで。まぁお遊びですよ。その中でも市内の大会に出て優勝を争ったりはしましたけどね」。当時から運動神経は抜群だった。「スポーツに関しては人よりちょっと抜けていたような感じだった」。
体はガリガリも…相撲部に借り出された小学時代
それで小学校の相撲部にも引っ張られたそうだ。「相手はみんな太った連中で、それに比べたら私はガリガリ。身長は彼らと同じくらいだったけど、やせていて細かったんですが、それでもまぁ強かったんですよ。何か力が強かったみたいですね。よく先生に“ちょっと(相撲部に)行ってこい”って言われて行きましたね。野球と相撲の両方をやっていました。でもやっぱり主は野球。よく遊んでいたのは野球でしたけどね」と笑みを浮かべた。
プロ野球は、その当時、どこのファンでもなかったそうだが、テレビ中継は幼い頃からよく見ていたという。「NHKと民放が1局だけだったんですけど、巨人阪神戦はよく見ていましたから、もしかしたら、それで野球は覚えたのかもしれません。オヤジは産経新聞の和歌山田辺通信社の仕事をしていて、その関係で家にはテレビも電話もあって、野球とかプロレスとかが放送される時は地域の人も集まってきて、一緒に見ていましたね」。
野球に関しての小学校時代の一番の思い出は「父にグラブを買ってもらったこと」という。「(小学校で野球をはじめた)5年の頃、ウチのオヤジは(和歌山県の)橋本に単身赴任中で、その時にね。ただ、オヤジが買ってきたのはプロ野球が使うような大きな大人用のグラブ。皮の硬式用で、小学生には重かったけど『今は使えなくても将来、絶対使えるようになるから』ってね。壁当ての時に使いました。大事に大事に磨いたりしていましたねぇ」。宝物だったようだ。
練習や試合で使うグラブは小学校の先生から借りてプレー。「古い大人用だったけど、布のやつで軽くて使いやすかった。でもね、うまくなりたいとか、目標は何とか、そういうものは全く考えていなかったんですよ」。あくまで“遊び”の野球。「ただ本能に任せてです。勉強は嫌いだったですから」と上田氏は笑う。山や海で自然と鍛えられた時代を経て、野球人生は田辺市立明洋中学から本格化していくことになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
