日常生活も困難…我慢の投球も「痛けりゃやめろ」 監督の“非情通告”にこぼれた涙

阪神で活躍した上田二朗氏【写真:山口真司】
阪神で活躍した上田二朗氏【写真:山口真司】

上田二朗氏は高2夏過ぎから下手投げに…投法変更で体に異変

 何をするのも痛かった。阪神時代の1973年に22勝を挙げた伝説のアンダースロー・上田二朗氏(野球評論家)は、和歌山・南部高2年の1964年夏過ぎに上手投げから変えた。南部・山崎繁雄監督の指令によるものだった。「それで頑張ってよくなれば試合にも出してやる」との約束もとりつけ、必死に下手投げ習得に励んだが、背筋を痛めるなど体に異変が発生した。その後は痛みをこらえながらの練習。試練の日々だった。

 高校2年夏過ぎから始まった上田氏のアンダースローへの挑戦。「試合に出るためにも何とかして自分のものにしなきゃいけないと思ってやっていたんですけど、1週間、2週間と投げているうちに、背中とか脇腹とか足とか、腰から背中、背筋にかけて痛くなった。今まで使ったことがない筋肉を使っていたからでしょうね。おそらく背筋は肉離れだったと思う」。ピッチングの時だけでなくて何をするのも痛くなったという。

「息をするのも痛いんですよ。ご飯を食べるのに箸を持とうと動かしたら痛い。座って、立ち上がろうとしても痛い。トイレに行くのも痛い。バスに乗るのも痛い。もう何でも……。それがずーっと続いたんです。でも練習に行った時に当時は痛いとかかゆいとか言えませんから投げるんですよ。(鎮痛消炎薬の)サロメチールとかタップソール、むっちゃ熱くなるヤツですけど、それを友達に背中にベターッと塗ってもらって熱さで麻痺させて投げました」

 投球練習直前に塗っていたという。「練習の時からやっていたら、熱くてとてもできないんでね。だからキャッチボールなんか息詰まりながらやっていました。さぁ、ピッチング、監督が来ますって時に塗ってもらって投げていたんですよ。だけど、それでも1球ごとに、ウッ、ウッってなるわけです。監督がそばにいたら、そんな顔をしないでおこうと思うんですけど、やっぱり息が詰まるんでせんわけにはいかなったんです」。その異変を山崎監督がやはり察知した。

「監督がじーっと見ていて『上田やめろ。お前、痛いのか』って。『痛いです』と答えたら『苦しいのか』って。『苦しいです』と言ったら『もうアンダースローをやめろ。痛けりゃやめろ』と言われたので『やめたら使ってもらえないでしょ、これを乗り切らないといけないんでやります』と。そしたら『そんな痛い顔をするならやめろ』って。『ちょっと待ってくださいよ。我慢してやっているのに』って涙がボロボロでましてね……」

冬場の猛トレーニングで課題克服「乗り越えたって感じ」

 上田氏は山崎監督の「アンダースローをやめろ」に一歩も引かなかった。「こっちは何とかして乗り切ろうとしているのに、簡単にあれせぇ、これせぇ、やめろって感じで言われたのが目茶苦茶辛くて……。監督に『いや、やります』と言いました。そしたら『好きにせー』って」。下手投げ練習を継続。「それからは毎日ピッチングはせずに、2日に1回くらいで…」。痛みを抱えたまま、2年秋の和歌山大会でも登板した。

 南部は準決勝で藤田平遊撃手を擁する市和歌山商に0-7で敗れ、選抜の夢を絶たれたが、その試合にも上田氏は先発・谷地をリリーフして2番手で投げた。「監督に投げさせてもらった。『投げられるか』と聞かれて『投げられます』と答えたと思います」。投球内容については「記憶にない」という。後に阪神で同僚になる藤田のことも「そのときの(藤田)平がどうとかは全く……。とにかく自分との闘いで人は関係なかったです」。

 南部に勝った市和歌山商はそのまま勝ち上がり、近畿大会でも4強入りして選抜切符をつかみ、1965年の選抜大会では準優勝に輝いたが、その間に上田氏も必死の調整を続けた。「冬の間はピッチングをしなかったんですけど、逆も真なりで痛いのを乗り越えようと思って、ガンガン背中のトレーニングをしたんですよ。ウエートトレーニングとかそういうのはなかったんで、一升瓶に砂を入れたものを使ったり、自転車のチューブを引っ張ったりしてね」。

 すべて上田氏自身の考えで行ったという。「とにかく足から腰にかけて、そして背中にかけて強くせないかんと思った。痛いから休むのではなく、痛いのを我慢してそこに筋肉をつけようってね。練習が終わって家に帰ってからも走りました。南部の一本松ってところまで家から往復14キロくらいかな。暗いからオヤジに単車で付いてきてもらって。雨の日も風の日も手伝ってくれました。そういうのをやって下半身が無茶苦茶太くなって体が出来上がってきたんですよ」。

 市和歌山商が選抜で決勝に進出し、岡山東商と延長13回の激闘を繰り広げ、惜しくも1-2でサヨナラ負けした頃には、上田氏の体は前年秋の和歌山大会の頃とは見違えるように変わっていた。「体が治ったというよりも、乗り越えたって感じでしたね」。もう痛みを感じることはなかった。まさに筋肉の鎧ですべてを吹き飛ばした。秋から冬にかけて毎日続けたトレーニング、父にも手伝ってもらったランニングの成果だった。

「それでもエースは(同級生右腕の)谷地で、私は2番手投手。通常はファーストだったんですけどね」というが、体調面の不安がなくなったことでアンダースローの投球術にも磨きがかかっていった。1965年の高校3年の夏、和歌山大会準々決勝の市和歌山商戦に上田氏は先発し、3-1で完投勝利。選抜準優勝校を破った。そして、その好投が東海大進学にもつながっていくことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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