2桁勝利でも敗戦処理、間隔空く登板 阪神右腕が抱いた不満「何で投げさせてくれないのか」

上田二郎氏は「次郎」「次朗」など、何度か登録名を変更
元阪神、南海のアンダースロー右腕・上田二朗氏(野球評論家)は登録名の“名前”を何度か変更したことでも知られている。12勝を挙げたプロ7年目の1976年までは本名の「上田二朗」だったが、1977年に「上田次郎」、1979年には「上田二朗」に戻し、1980年からは「上田次朗」とした。結果はともかく、その時その時に最善と判断してのこと。「この年の年回りだったら、これがいいってことだったのでね」などと“真相”も明かした。
プロ4年目の1973年に先発、リリーフとフル回転して287回1/3を投げて22勝をマークした上田氏だが、翌1974年は7勝13敗1セーブ、防御率4.02に終わった。打線との“巡り合わせ”もあまりよくなかった。「防御率は悪かったですけど、勝ち負けが逆になってもいいような内容もけっこうあったと思う。まぁ、勝ち負けというのはそういうものですから。(結果に関しては)そんなに私自身、こだわる問題ではなかったんですけどね」。
開幕2戦目の4月7日の大洋戦(岡山)に先発し、3失点完投で9回3-3の引き分け。2登板目の4月18日の巨人戦(後楽園)では8回2失点でシーズン初勝利を挙げたが、3登板目の4月24日の中日戦(甲子園)では3失点完投でシーズン初黒星を喫した。その後も好投が報われないケースが少なくなかった。これが、大活躍した前年の“反動”だったのか。「前の年の疲れはあったでしょうね」とも振り返った。
ただし「肩や肘とかは別にどこも何ともなかった。体は強かったと思います」ときっぱり。実際、5年目も36登板。26試合に先発し、そのうち7試合に完投している。9勝9敗1セーブだった6年目(1975年)もしかり。この年も先発あり、リリーフありの36登板。先発は27試合で2完封を含む5完投とタフネスぶりを発揮した。「今だったら酷使とか言われるんでしょうけど、その頃はそれが普通だったし、試合に投げられればいいという感じでしたね」。
1976年に12勝も簡単ではなかった調整…湧いた疑問
7年目の1976年は12勝9敗と2桁勝利をマーク。上田氏は「その年が一番よかったです。22勝した(1973)年よりも球に力があった気がしました。1年を通じてコンディションもよかった」と言う。もっとも、この年は先発して早い回に打たれて降板すると、翌日の試合で負け展開の中でリリーフ起用されることが何度かあったり、先発で完投勝利を挙げても次の登板までに間隔がかなり空いたり、調整は決して簡単ではなかったようだ。
「何でこのタイミングで投げさせてくれないのかとか、クエスチョンマークもあったので、皆川(睦雄)投手コーチに話をしに行ったこともありましたけどね」。悩み苦しみながらも、そんな行動で自身を納得させながら投げてつかんだ12勝だったが、状態的にも次のシーズンはもっとよくしたいとの気持ちが強くなるのも当然だろう。ここで登録名を「上田二朗」から「上田次郎」に変更することを決断した。
「戸籍では“二朗”なんですが、ある家相の先生とお会いして『この年(1977年)の年回りだったら、これがいいですよ』と言われて“次郎”にしたんです。言われなかったら変えていないですけど、言われたらやっぱり変えないといけないかなっていう気持ちになりましたしね。その後も年回りで(登録名を)変えました。このことは、よく言われますけど、私自身はそんなに大きな問題と考えたこともなかったんですよ」
登録名を「上田次郎」にして臨んだ1977年は8勝9敗。「その頃は8回、9回にリリーフにいった人が打たれるとかも多々あったんじゃないかなと思う。マウンドを降りたら何もできない。他力本願ですから。もちろん、抑えてくれた時もあったし、その時は『ありがとう』でしたけどね」。当時30歳。登録名変更も含めていろいろ工夫し、精一杯取り組みながらも何かしら、うまくいかなくなってきたと感じ始めた頃でもあった。この後、さらに苦しい時期が待ち受ける。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

