阪神右腕が悟った終焉の時 “侮り”が生んだ絶望、相手に伝えた「お前のせいで辞めたんや」

阪神などでプレーした上田二朗氏【写真:山口真司】
阪神などでプレーした上田二朗氏【写真:山口真司】

上田二朗氏は1982年途中に南海から阪神に復帰…同年限りで現役引退

 1973年に年間22勝をマークした伝説のアンダースロー、上田二朗氏(野球評論家)はプロ13年目の1982年に現役を引退した。シーズン途中の6月に南海から阪神に復帰したが、8登板で1勝1敗。オフに安藤統男監督から1軍投手コーチ補佐就任を要請され、承諾して区切りをつけたが、実はペナントレース中にも「やめようと思った時があった」と明かす。7月10日、舞台は横浜スタジアム。大洋の7番打者に浴びた一発に衝撃を受けたという。

 1982年シーズン途中に南海から古巣・阪神に復帰した上田氏の背番号は「15」。かつて阪神でつけていた「16」は主力の岡田彰布内野手の番号とあって、南海時代と同じ番号になった。「『15番を用意しました』と言われ『空き番ですか』と聞いたらピッチャーの赤松(一朗)君(1979年ドラフト2位)がつけていたというので『僕は何番でもいいので、やめてくださいよ』と言ったんですけど『本人もOKしている』って。彼には『すまなかったなぁ』と言いましたけどね」。

 そんないきさつもあったなか、6月22日のヤクルト戦(神宮)で復帰後初登板。4-4の6回に4番手で投げて1イニングを無失点に抑えた。打線が終盤に勝ち越して9-4で勝ち、阪神はこの時点で4連勝。上田氏はきっちり仕事をこなしての“再デビュー戦”となった。チームは絶好調で、その後も連勝街道をまっしぐら。1分けを挟んで10連勝で、上田氏の復帰2登板目となる本拠地・甲子園での7月2日の巨人戦を迎えた。

 4-0の6回に先発・工藤一彦投手が2点を返され、なお2死一、三塁。ここで上田氏の出番となった。「あの時は、ホント胸が熱くなりました。ブルペンで投げている時からお客さんがすっごく喜んでくれたし、登板するとなったら、さらに目茶苦茶喜んでくれたんですよ」。帰ってきたアンダースロー右腕への大歓声。巨人は左打者のゲーリー・トマソン外野手を代打で起用してきたが、上田氏はベテランらしい落ち着いた投球に終始した。

 ストライク、ボール、ボール、ファウル、ボール ファウル。フルカウントからの7球目。上田氏は外角への切れ味鋭いシュートでトマソンを空振り三振に仕留めた。ピンチを脱する1/3回無失点リリーフ。甲子園はさらなる大歓声に包まれた。「もうホントにピッチャーをやっていてよかったと初めて、その時に思いました。こんなに迎えてくれるんだってね」。阪神はその試合も6-4で制して11連勝。上田氏にとっては忘れられない打者1人への大感動のマウンドになった。

屋鋪要に浴びた一発は「引導を渡された感じでした」

 翌7月3日の巨人戦(甲子園)に2-8で敗れ、阪神の連勝は11でストップ。上田氏も0-3の7回に2番手で登板し、1回2失点と3登板目は悔しい結果になったが、懸命に前を向いた。4登板目の7月7日の広島戦(広島)では8回途中から4番手で投げて2/3回を1失点。この時点で2-4だった試合を9回に阪神打線が3点を奪って逆転勝ち。上田氏はシーズン初勝利を手にした。これが現役ラストの通算92勝目だった。

 そんな上田氏が、さらに「印象深い」と話すのが5登板目の7月10日の大洋戦(横浜)。復帰後初先発も2回1/3を6失点でKOされ、敗戦投手になった試合だ。「本当は伊藤文隆(当時の登録名は伊藤宏光)が先発予定だったんですが、前の晩に彼が熱を出したんですよ。それで『上田、行ってくれないか』と言われた。これも千載一遇のチャンスなのかなって思って『はい、行きます』と言って先発したんですけどね」。

 その試合で大洋の7番打者・屋鋪要外野手に浴びた本塁打を強烈に覚えているという。「屋鋪には悪いですけど、絶対打たれないバッターだと思っていたんです。それが……。インコースに投げる予定が中に入って、シュート回転でいったボールを、手を離した状態でカーンと弾かれてライトスタンドへ。あの時『あ、これでアカンなぁ、今年で終わりやなぁ』って思ったんですよ。引導を渡された感じでした」。

 その後はリリーフでの登板が続いたが、納得できる結果は出せなかった。8登板目の7月31日の巨人戦(甲子園)に4番手で1回を投げて自責点は1だったものの、中畑清内野手に一発を浴びた。その後、2軍落ちして、シーズンを終えた。屋鋪に打たれた段階で覚悟しながらも「自分から辞めると言う気はなかった」という。だが、現役続行はやはり無理だった。シーズンオフに引退が決まった。

投手コーチ補佐就任要請を承諾…現役13年で通算92勝をマーク

「(監督の)安藤さんに、(1軍投手コーチの)小山(正明)さんの下で『投手コーチの勉強してくれ』って言われました。コーチになることはそれまで思ってもいなかったんですけど、考えてみれば、そのために(南海から)呼んでくれたのかな、そういう路線だったのかなとも思いましたね。『ちょっと考えさせてください』と言って女房と『今からヨソ(の球団)に行っても1年か2年で帰ってこないといけないしなぁ』とかいろいろ話をして受けることにしたんです」

 プロ13年の通算成績は361登板、92勝101敗3セーブ、防御率3.95。プロ4年目の1973年に22勝をマークした伝説のアンダースローは静かに闘いのマウンドを降りた。「屋鋪にはいつも言っているんですよ。『お前のおかげで俺はやめたんや、お前のせいでやめたんや』ってね」と上田氏は笑いながら話した。「潮時だったと思います」とも口にしたが、あれだけ投げまくってきても「どこも故障はなかった」という。

 少年時代には和歌山の山と海に自然と鍛えられた。田辺市立明洋中学ではライバル・室井勝投手(元大洋)に刺激を受け、和歌山県立南部高では山崎繁雄監督にアンダスローへの転向を命じられた。東海大では岩田敏監督の下で絶対的エースに成長し、大学球界の頂点に立った。阪神では村山実監督に多くのことを学んだ。1歳年下の江夏豊投手としのぎを削り、プロ入り同期で同い年の中日・谷沢健一内野手との対戦では常に力勝負で切磋琢磨した……。

 ほかにも数え切れない縁と出会いが上田氏の現役選手生活を成立させた。そして引退後も阪神球団との縁は続いていった。「いい勉強になりました。いい経験になりました。感動もしました……」。コーチとして、フロントとして、タイガースを支える仕事が待っていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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