水飲まずに2時間のラントレ…上級生が「一番憂鬱」 元MLB右腕が忘れぬ3年間

元ロッテ・薮田安彦氏が語る高校時代
日米で17年間投手としてプレーした薮田安彦氏はロッテ時代、盤石のリリーフ陣「YFK」の一角として日本一に貢献した。2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも大活躍。プロとしてのキャリアを築いたが、本人曰く全盛期は「小学校4~5年生の頃」だという。
父親は大阪・浪商高で怪童・尾崎行雄氏と同学年、2年時の甲子園全国制覇メンバーだった。小さな頃から指導は厳しく「幼稚園から遊びでキャッチボールしていたのが、いつの間にかユニホームを着ていた。早い年齢からやっていたので、投げればノーヒットノーランばかりで大会も毎回のように優勝。でも6年生くらいから周りも追いついてきて、それ以来、壁にぶつかりまくっています」と笑う。
父の経歴は周囲もよく知っており、小中と常にチームの指導者だった。しかし、ボーイズではチームと揉め、親子で離れることに。「中学3年の時はほぼ1年間、毎日、親父と2人で練習です。公園で走ってピッチングして。めちゃくちゃ厳しくて、嫌でしたね。怒られて、こっちも反抗したり。でも今思えば、あれがあったから今があるかなとも思っています」と振り返る。
ボーイズ退団以降は個人練習のみだったため、強豪校のスカウトに見られる機会はなかった。知人の紹介で大阪・上宮高のセレクションに合格。キャプテンとなる中村豊氏の自宅に下宿できることになり、入学を決めた。
「正直、高校野球をあまり見ていなくて、上宮高校のことはほとんど知りませんでした。当時の大阪はPL学園が強烈すぎて」。入学してから厳しさを知った。「練習は長くて厳しい。しごきもある。指導者も厳しかったけど、先輩の指導が一番憂鬱でした。いかに目をつけられないようにするか。今みたいに自分から前に出て何かしようという発想はなかった。いるけどいないように、かと言ってさぼって見えないように」。
毎日2時間走りっぱなし「いかに楽をするか」
投球練習と少々の打撃練習以外、毎日2時間ほど走りっぱなしだった。「誰かが走っていれば指導者に叱られないので、上級生は1年生ばかり走らせます。3~5本走ったら、上級生が1本とか。今よりは夏の気温は低かったけど、水は飲めない時代。だんだん、全力ではないけどそう見える走り方を身につける。もはや強化になっていなくて、いかに楽をするか、ですよね」。
厳しい世界に身を置き、野球そのものが嫌いになることはなかったのか――。「うーん」と考え込んでゆっくりと口を開いた。「その時は野球を好きではなかったかな……。どういう感覚でやっていたのかなぁ。辞めたいと思った時もありましたけど、野球推薦だし学費も親が払ってくれているし。ただ、甲子園には出たいと思っていましたね」。
2学年上には元木大介氏、種田仁氏がいて、夏の甲子園に出場。しかし、その後は甲子園に縁がなかった。「僕の代はスタメン6人と控えにいた黒田(博樹氏。広島など)の7人が後にプロに。でも甲子園には行けませんでした」と振り返る。自身は3年春の近畿大会で、直前の選抜でベスト8に入っていた大阪桐蔭高との試合で好投。一躍、プロ注目選手となった。
「新聞にリストアップされましたけど、他は明らかに自分よりレベルが上の選手ばかり。元木さん、種田さんもずば抜けていたし、とてもプロは無理だと」。そこで監督に進路の相談をすると、NPBから話が来ていると言われ、プロ志望を表明したが、結局指名には至らなかった。
それでも「自分でも頑張ればプロに行けるんじゃないか、と思えた」ことで目標が明確になった。心は折れず、むしろモチベーションが上がった。社会人野球の新日鐵広畑に進み、再びプロを目標に野球を続けることを決めた。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

