「大学に行ったら遊んでしまう」 選んだ社会人も…壮絶すぎた300球×7日間

薮田氏が語る社会人時代…制球力を鍛えた投げ込み
ロッテなど日米で活躍した薮田安彦氏は大阪・上宮高時代にプロ志望を表明するも指名漏れした。夏頃まで、「プロは無理」だと思っていたが、ドラフト候補としてメディアに取り上げられると、プロが明確な目標になった。大学進学も検討したが、右腕が選んだのは社会人だった。
「先輩が進学していた大学は、いわゆる『しごき』がないと聞いていたので前向きに考えていました。監督の出身である日体大も、監督が話してくれると。でも大学に行ったらお金もかかるし、遊んでしまうような気がして……」。自らを追い込むために社会人野球を目指した。知人の紹介もあり新日鐵広畑に決まった。当時、毎年のように都市対抗野球の本戦に出ていた強豪だ。
「自分の力を上げて行ければ、そして大きな大会で投げられれば、という思いでした。都市対抗で良い投球をすれば目につくだろうし、3年間はプロに行けないけど、その間に実力をつけようと」。入社1年目から都市対抗本戦の東京ドームで登板するなど、社会人野球で4年間を過ごした。
当時の社会人野球は金属バット。「甘く入っても、打ち損じてもホームラン」なので、基本的に低めが絶対条件だった。打高投低の世界。制球力は徹底的な投げ込みで鍛えた。「合宿や強化練習では、例えば、外角低め、10球続いたら終わり、と言われるんです。うまく行ったら10球で終わりだよと。でも絶対に終わらない。コースが少しでもズレたらダメだし、置きに行ってもダメ。結局300球くらい投げる。1週間くらい毎日です。後半は腕が痺れてきます」。
当時は投げ込みを通じて、疲れてきてから体の使い方がわかってくる、理想のフォームになる、という思想もあった。「きょうは疲れているな、という状態でピッチングをして、引き出しを見つける人もいると思うので、その思想も一概には否定できない。でもやっぱり、300球を毎日7日間はさすがに多すぎます」。
今ではあり得ないような内容でも「制球力がついたのはあの練習」
今ではあり得ないようなオーバーワーク。「ただ、僕の場合は、プロでやっていける制球力がついたのは、あの練習なんですよね」と振り返る。「投げないとわからないこともある。頭でわかっているだけではダメで、インプットしたものをアウトプットする必要はあると思うんです。自分が思い描いている通りに投げられているのか、を理解するためには、30球じゃわからない。ある程度の量も必要だとは思います」。
走ることに関しても、社会人野球は質が高かった。高校時代、毎日のように2時間走らされてきたが、それでもきつかったという。「高校時代は全力で走っているように見せているだけで、そこまでのスタミナがついたわけではない。広畑では2時間走りっぱなしではない代わりに、タイムを設定されたり、内容が濃かった。当時、特に投手は『走れ走れ』の時代だから、量も多かった。プロでやっていけるスタミナも、社会人で培われました」。
高校時代は候補として名前があがるまで「雲の上の存在。到底無理」と思っていたプロ野球の世界。社会人野球の4年間で大きく成長した薮田氏は、1995年のドラフトでロッテから2位指名を受けた。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

