野球よりサッカー…小3で迎えた“転機“ ドラ1右腕の運命を変えた祖母の言葉

元広島・今村猛氏【写真:山口真司】
元広島・今村猛氏【写真:山口真司】

2009年選抜優勝→広島ドラ1入団…救援で活躍した今村猛氏

 ポーカーフェイスで黙々と投げ続けた仕事人、広島で中継ぎ、抑えでも活躍した右腕が今村猛氏だ。2021年に30歳でユニホームを脱ぎ、現在はパーソナルトレーニング専門ジム「R―GYM」(広島市中区)のオーナーとして活動しながら野球にも携わり続けている。長崎・清峰高時代の2009年選抜大会ではエースとして全国制覇を成し遂げ、ドラフト1位でカープに入団したが、その野球人生は祖母・マサ子さんの言葉から始まったという。

 今村氏は日本本土の最西端に位置する長崎県佐世保市小佐々(こさざ)町(旧北松浦郡小佐々町)出身。「もともとやりたかったのはサッカーだったんですよ」と話す。1991年4月17日生まれ。「(長崎県立)国見高校が強くて、同級生もみんなサッカーをしていたんで……」。当時、小嶺忠敏監督が率いていた国見高サッカー部は全国制覇を果たしたことがある強豪で、長崎県内を毎年のように盛り上げており、その影響を受けていた。

「サッカー部とかに入っていたわけではないんですが、みんなとサッカーボールを蹴っていましたね」。そんな“サッカー少年”が“野球少年”に切り替わったのは楠栖(くすずみ)小学校3年生になってからだった。「9歳の時、おばあちゃんに言われたんです。『野球をやりなさい』って。それがきっかけでした。何でそう言われたのかは、よくわかりません。おばあちゃんが野球好きだったとは思いますけどね」。

 そのまま小学校の野球チームに入ったが、プロ野球にはあまり興味がなかったという。「野球中継が家では流れていましたけど、僕は全然見てなかったですね。巨人の上原(浩治)さんや桑田(真澄)さんは知ってはいましたけど。あの頃はただ野球をやっていただけでしたね。最初はファーストをやっていました」。6年生までいるチーム。3年生では試合に出られなかったそうだが、身体能力はやはり高かったのだろう。

祖母の勧めがなければ…「ずっとサッカーをやっていた可能性はあった」

「4年生からは(試合に)出ていました。ピッチャーもやっていましたし、いろんなところを守っていました。打つ方は4年の時は下位だったけど、5年からは真ん中くらい、5番が多かったと思います」。チームは強くなかった。「小学校の時の成績は地区大会で1回戦負けとかね。いっても2回戦か3回戦くらいで終わっていました」。だが、気がつけば祖母にすすめられて始めた野球に夢中だった。野球を楽しんでいた。小佐々中でも迷わず軟式野球部に入った。

 中学の野球部は強かった。2005年の中学2年時には九州大会で優勝し、全国大会にも出場した。「僕は内野がメインでした。サード、ショート、セカンド、ファースト、どこでもやりました。一つ上の先輩に(野手兼任の)ピッチャーが何人かいて、その先輩がピッチャーをやる時に(抜けたポジションに)僕が入るって感じで回っていましたね。あまり投げていなかったけど、ピッチャーもやっていました」。

 横浜スタジアムで行われた全国大会は1回戦で負けたが、「僕は中学2年で、ひとつ上の先輩がいた時は、(長崎)県大会が4回あったんですけど、全部優勝しました」。そんなレベルの高いチームでもまれ、今村氏も成長していった。その後、小佐々中から清峰高へ進み、甲子園で活躍してプロ注目の投手になっていく。すべてが少年時代には思ってもいない展開だったという。

「おばあちゃんに野球をやりなさいと言われなかったら、ずっとサッカーをやっていた可能性はあったと思いますね」。まさに何が発端になるかわからない。祖母・マサ子さんの一言がなければ、清峰のエースとして長崎県勢初の甲子園制覇を成し遂げることはなかったかもしれないし、カープにドラフト1位で入団することもなかったのかもしれない。振り返れば今村氏にとって、それは“大きなひと言”。野球の道へ導いてくれた祖母に感謝している。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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