MLB挑戦直前の“英雄”に死球 「痛くないだろう」も、まさかの展開…プロに繋がった縁

今村猛氏は中2の時に城島健司と“対戦”…脇腹付近に死球を与えた
広島でリリーフ右腕として大活躍した今村猛氏は、長崎・佐世保の小佐々(こさざ)中2年冬に同郷の城島健司捕手(当時マリナーズ、現ソフトバンク・チーフ・ベースボール・オフィサー)と“対戦経験”がある。2006年1月、舞台は佐世保野球場。自主トレ中の城島が野球教室を行い、中学生チームと対戦。その時、投手を務めた。結果はまさかの死球。笑いながら追いかけ回されたが、縁とは不思議なものだ。この後、さらなる出会いがあった。「野球に対する考え方が変わりました」と話した。
主に内野手だった小佐々中2年時に九州大会で優勝し、1回戦敗退ながら全国大会出場も経験した今村氏は、楠栖(くすずみ)小時代には、ほとんど興味がなかったプロ野球にも少しばかり目を向けるようになった。「中継はジャイアンツ戦ばかりだったので、他の情報はあまりなかったというのが正直なところですけど、ダイエー(ソフトバンク)は(福岡で)長崎から一番近いのでね。近くにこんな強いプロ野球チームがあるんだなという認識くらいはありましたね」。
そして2006年1月、中学2年の冬に地元の英雄と対決することになった。2005年オフに海外FA権を行使し、ソフトバンクからマリナーズへの移籍が決まった佐世保市出身の城島が渡米前に佐世保野球場で自主トレを行い、そこでの出来事だった。「城島さんの野球教室に招待していただいて、その時に市内の中学生が集められて即席のチームを作ってプロと練習試合みたいな感じのことをやったんです」。
「祝シアトルマリナーズ入団 メジャーで大きくはばたけ! 郷土の希望 城島健司選手」との横断幕などが掲げられた球場で、中学2年の今村氏が中学生チームの投手を務め、打者・城島と対戦した。抑えてやろうなんて気持ちは全くなかった。「それは無理だと思ったし、楽しくやれればいいかなって感じでした」。結果は脇腹付近への死球。「当たっちゃいました。抜けましたね」。緊張からではなく「寒かったんで、それだけですね」という。
城島の恩師が中学校長に赴任…高まった向上心
「軟式で125から130(キロ)くらい。痛くはないだろうなと思っていました」とクールに振り返ったが、サービス精神旺盛な城島は、すかさずマウンドに向かって走り出すパフォーマンス。笑いながら投手・今村を追いかけ回した。「僕も逃げました。反応しましたね。逃げ切りました」。死球に怒った選手がマウンドに突進し、危険を察知した投手が逃げていく。乱闘シーンのような形になって、それもまた盛り上がったそうだ。
地元のスーパースターとの、その時の“接点”はそれだけ。「その後は(話をするとか)何もなかったと思います」というが、城島との“縁”はその後も違う形で続いていた。「中学3年の時、だから、その年の4月と思いますが、小佐々中学の校長が、城島さんの(佐世保市立)相浦中時代の野球部監督だった左海(道久)先生になったんです。城島さんを育てたということで、すごい有名な方だったんです」。
左海氏は1986年、相浦中を全国中学校軟式野球大会で全国優勝に導いた監督で、その後も村田善則捕手(現巨人総合コーチ)や城島を指導したことで知られていた。「校長だったので(野球の指導は)直接なかったんですけど、話をしてもらいました。相浦中の時の城島さんは野球のことだけを考えていたという話とか、こんな練習をしていたとか、その考え方とかを聞いて、僕ももっと野球をしなきゃって思ったのを覚えています。それで僕も変わったと思います」。
今村氏が中3時の小佐々中野球部は前年のように勝ち進むことはできなかったが、運命の出会いで野球への向上心は高まった。「ポジションは違いましたけど、城島さんを尊敬しています」。死球の“縁”も含めて、何かしら通じるものがあったのかもしれない。その時は、後に城島とプロで対戦することになるとは「思ってもいませんでした」というが、野球への取り組み方が変わったことで技術も進歩していった。進学した清峰高でさらにジャンプアップする。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

