衝撃だった伊良部の剛球「レベルが違いすぎ」 打ち砕かれた安易な望み…よぎった戦力外

ロッテで活躍した薮田安彦氏【写真提供:産経新聞社】
ロッテで活躍した薮田安彦氏【写真提供:産経新聞社】

ロッテ入団で衝撃「やっていけるのかな」

 日米で活躍した薮田安彦氏は1995年のドラフト会議でロッテからドラフト2位指名を受けた。高校時代に「雲の上の存在」と思っていたプロの世界に足を踏み入れることができた。高校入学時や社会人入部時もレベルの高さに驚いたが、プロはそれまでの比ではなかった。

「全然、レベルが違いすぎました。当時は伊良部(秀輝)さんがいましたし、小宮山(悟)さんや河本育之さんも球が速かった。あの人たちのボールを見た瞬間、『自分がやっていけるのかな』『この人たちはけた違いだな、これはいかん』と衝撃を受けました」

 当時の社会人野球は145キロを投げられれば速い方だったが、彼らは軽くその球速を超えていた。「伊良部さんは体も大きいし、軽く投げて僕の球速と同じくらい。フォークが僕の真っすぐくらいの球速だったので、あり得ない世界でしたね」。

 ただ、当時の社会人野球は金属バット。プロは木製なので、そこに希望はあった。「社会人の時も大学生との試合では木製バットで、ちょっとずらせばそんなに飛ばないなと思っていた。でもプロは簡単に持っていくんです。社会人の金属バットの打者よりも、プロの木製バットの打者の方が全然上でした」。唯一、自分がやっていけそうだと思った、木と金属の違い。しかしそんな思いは一気に崩された。

 のちに藤田宗一氏、小林雅英氏と共に盤石のリリーフ陣「YFK」の一角として活躍する薮田氏だが、プロでのキャリア前半は苦戦が続いた。「30歳までは1軍で先発しても年間で5勝くらい。それも毎年ではなく、隔年でしか働けなかった。28~29歳くらいから、年齢的にもそろそろ危ないかなと」。戦力外の危機を感じ始めていた。その頃、コーチやブルペンキャッチャーからはこんな声もかけられていた。「練習はめちゃくちゃ良い。でも試合になると練習の良さが出ない、と結構言われていたんです。なんでだろうと思って」。

苦悩の中でふと思い出したメンタルトレーナーの講演

 自分の中で何かを変えなければいけないという気持ちになっていた時に思い出したことがあった。プロ2年目のキャンプでのこと。メンタルトレーナーの講演があった。「当時は若かったので、いやいや、技術でしょ、と一切頭に入らなかったんです。でもそのことを思い出して、その方に連絡を取りました」。しかし、当時の薮田氏にはメンタルトレーニングの知識は一切ない。「そもそもメンタルトレーニングって何ですか」という質問から入ったという。

 最初に受けた診断テストの結果が、衝撃的だった。「5段階の円グラフというか、レーダーチャートっていうのかな。外側に広がるほどメンタルが強いことを示すらしいんですけど、自分のはめちゃくちゃ小さかったんです。今の薮田君のメンタルは、このグラフの示す通りですよ、と言われて、一目瞭然でしたね」。

 一気には変わらない、徐々に自分の考え方を変えていくものと指導され、テキストを渡されたという。「自分の考え方を答えていって、だんだんポジティブな考え方に持って行ってくれるような内容でした」。最初は変わらなかったが、先生も赤ペンを用いて直してくれた。「ひたすらやり続けて、1冊終わったらまたもらって、キャンプ中などは時間があるので、やれるだけ毎日やっていましたね」。

 シーズン中も先生に会いに行って、テキストと並行して本も渡されて読むようになった。「少しずつ考え方が変わってきた」と手応えを感じ始めた頃、ボビー・バレンタイン氏がマリーンズの監督に就任。それまでは先発にこだわっていたが、そのこだわりも捨てたという。「メンタルトレーニングを受けたこと、自分の年齢のこと、監督が変わったことで、考え方が変わりました。まずは1軍定着。そのために、与えられたところで頑張ろうと」。2004年、30歳で迎えるシーズンのこと。歯車は、一気に動こうとしていた。

(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

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