タイトル獲得→MLB挑戦も告げられたマイナー 感じた“日米の差”「100%でやっと勝負に」

ロイヤルズ時代の薮田安彦氏【写真:Getty Images】
ロイヤルズ時代の薮田安彦氏【写真:Getty Images】

薮田氏が語る米挑戦のきっかけ…WBCが転機に

 2007年に最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した薮田安彦氏は同年オフに取得した海外FA権を行使し、ロイヤルズに移籍した。2004年からボビー・バレンタイン監督が就任しブレーク。ただ、当初は米国でプレーする気持ちは全くなかったという。

「ボビーのおかげで僕もここまで来れたと思っているので、FA権を取得してもボビーと一緒に野球をやりたいと思っていました。他球団は全く考えていなかったんです」。恩人のもと、できれば生涯ロッテで選手生命を終えたいとまで思っていた。

 転機となったのは、2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)だった。当時はメジャーリーガーをほとんど知らなかった。米国戦で登板し「色々と知ることができた」。日本とも違う球場にも魅了された。「それで挑戦してみたい、ここでやってみたい、と思うようになりました」。

 日の丸のユニホームを着たことに、格別な思いもあった。「実は中学3年生の時にチームを辞めた直前、日本代表に選ばれていたんです。でも、コーチをしていた父とともにチームを辞めることは決めていたので、スパッと辞めて代表も断念しました。それ以来、日の丸を背負ってみたいという気持ちはずっとありましたが、周りが凄すぎて程遠いと思っていた。だからWBCで代表入りした時は嬉しかったですね」。実に18年越しの代表入りを果たしたのである。

 WBCでは4試合、4回1/3を投げて5つの三振を奪った。自責点はわずか1。特に第2ラウンドの米国戦、7回のピンチで、スーパースターだったアレックス・ロドリゲス内野手から三振を奪った。翌年には最優秀中継ぎ投手のタイトルも獲得し、海外FA権も取得。条件が整ってもなお、MLB挑戦を決断しきれなかったが、バレンタイン監督に相談すると、「本音では残ってほしい」と言いつつ、こんなことを言われたという。

恩人の言葉で米挑戦も…1年目のオフに40人枠から外れる

「FA権は選手がそれまで培ってきた権利だから、自分で決めれば良いことだと思う。メジャーに挑戦するなら、私にできることがあったら全力でサポートするから、言ってほしい」。前向きな言葉を聞いて、「そこまで言ってくれるなら挑戦しようと思えた」。最後に背中を押してくれたのは、恩人の言葉だった。

「マウンドやボールの違いは、WBCでも経験していた」。しかし実際にメジャーリーガーとしてプレーしてみると、特にマウンドにはかなり苦しんだという。「当時はあそこまで固いマウンドは日本にはなくて、自分のイメージ通りのボールを投げることが難しかった。変化球も含めてです」。1年目はマイナー降格も経験し、オフにはメジャー出場前提となる40人枠からも外れて、2年目はマイナーで開幕を迎えた。

「1年目の経験から、マウンドを何とかしないと、という思いはありました。2年目に備えて、トレーニングや体の使い方も変えました。マイナー契約から這い上がっていくのは難しかったですが、3Aの成績は2年目のほうが良かったです」。3Aの成績は1年目が投球回40回1/3で防御率5.36、2年目は45回2/3で3.55。手ごたえも感じつつ、9月にメジャー昇格を果たす。1試合目は無難に抑えるも、2試合目に打ち込まれる。前の投手のアクシデントによる緊急登板。ブルペンで投げる時間はなく、マウンドで肩を作った。

 普通に準備してから登板する試合が続いていれば、もう少し好投が続いたのではないか――。しかし、「言い訳になるので」と多くを語らなかった。ただ、MLBの打者の力は肌で感じた。「こっちが100%でやっと勝負になる。下位の打者でも、日本に来たら4番を打っていたりします。力を抜くところがないんです。全て全力で投げないと確実にやられてしまう」。

 米国での2年を終えて、古巣・ロッテに戻ることになった薮田氏。今度は日本の柔らかいマウンドへの対応を考えなければならなかった。

(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

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