2度の指名漏れ…ようやくプロ入りも「3年やったら壊れる」 “酷使”で悲鳴を上げた右肘

元ロッテ・成本年秀氏【写真:尾辻剛】
元ロッテ・成本年秀氏【写真:尾辻剛】

元ロッテ・成本年秀氏、大阪ガス2年目にドラフト2位指名

 1996年に最優秀救援投手のタイトルを獲得した元ロッテの守護神・成本年秀氏は、プロのスカウトに注目された西宮東時代の1986年ドラフト会議では指名されず京産大へ進学。4年時の春季リーグ戦で最優秀投手に選出されたが、右肩の故障もあって1990年ドラフト会議でも指名は見送られた。2年後のプロ入りを見据えて社会人野球の大阪ガスに入社。後に決め球となる新たな球種の習得に励んだ。

「高校から投手になったので真っすぐとカーブしか投げられなかった。大学でスライダーを覚えて、フォークを社会人で覚えたんですよ。プロに入ってからじゃなくて、ある程度、1つずつ身につけたのでプロに入れたというストーリーがあるんです。高卒でプロに行っていたら活躍する前にクビになっていたと思います。大学の時も3年ぐらいから出始めたんですけど、怪我も多くて試合にもなかなか出られなかったんです」

 京産大では新たにスライダーを取得して首脳陣の評価を上げると、4年時の春季リーグ戦で6勝を挙げるなど通算10勝3敗。大学日本代表候補合宿にも招集され、後にプロで顔を合わせることになる専大・岡林洋一投手(元ヤクルト)、立命館大・長谷川滋利投手(元オリックス)、関西学院大・田口壮外野手(元オリックス)、同志社大・宮本慎也内野手(元ヤクルト)らとともに汗を流し「初めて全国レベルを体感した」と振り返る。

 ただ、秋に右肩を痛めてドラフト会議では再び指名漏れ。大阪ガスに進むことなる。入社後、成本氏はそこで衝撃を受ける。「野球で言えば一番カルチャーショックを受けたのは社会人なんですよ。その頃は(アマチュア野球選手が中心の)オリンピックがあって、打者は金属バットだったのでレベルがかなり高かった。だから体を強くしないといけない。都市対抗予選も負けたら終わりのシビアな戦い。メンタルの面もそうだし、練習も結構ハードだった。だから変な言い方になるけど、プロに入った時は気持ち的に楽に思えた。『木のバットだ』とも思ったし、体力もついていたので」

 大阪ガスにはソウル、バルセロナの両五輪に野球ではただ1人連続で参加していた西正文内野手が所属。日本代表の情報も聞かされて、勝負の厳しさを叩き込まれた。「当時は社会人の方がプロより先に新しいトレーニング方法を取り入れていましたし、データ分析なども細かくやっていたんですよ。今ではプロ野球では当たり前ですし、さらに進化してますけどね」。社会人1年目は日本選手権で準優勝。2年目の1992年は都市対抗の1回戦でNTT信越を相手に1失点完投勝利などアピールを続け、同年ドラフトでロッテから2位指名を受けた。

4年目に最優秀救援投手のタイトルも…トミー・ジョン手術

「いいタイミングでプロ野球の世界に入れたと思う。逆指名があった時代だけど、逆指名は当時は1位だけ。そんな実力もなかったですからね。試合に出られるチャンスがある球団に入れたのも大きい。『社会人即戦力』なので、駄目なら2、3年で終わる世界じゃないですか。24歳で入るわけだから、すぐに活躍できるという意味では、ロッテだからチャンスがあったのかもしれないですし、使っていただいた八木沢(壮六)監督に感謝しかありません」

 開幕1軍で迎えた1年目は37試合に登板。本拠地の千葉マリンで行われた4月14日の近鉄戦で中継ぎ登板して2回2/3無失点と上々のプロデビューを果たした。同21日のダイエー戦ではプロ初先発。9月18日のダイエー戦では中継ぎでプロ初勝利を挙げた。2年目の1994年は4月17日のダイエー戦で4回無失点のロングリリーフでプロ初セーブ。1歳上の守護神左腕・河本育之投手の不調もあって抑えに回り、3勝6敗19セーブ、防御率2.73を記録した。

「元々は先発をやりたかったけど、リリーフをやりながら、たまたま河本さんが調子悪くなったから、そのままロングリリーフで抑えまでやるようになったんですよ」。そう振り返るが、役割分担が明確な現在とは違って連日、ブルペンで出番を待つ救援投手が酷使されていた時期。「パ・リーグはDH制だから(投手に代打がなく)中継ぎは4~5イニング投げることもあるし、抑えなら2~3イニング投げる時代でしたからね。だから当時は『リリーフ3年やったら壊れる仕事』だと言われたりしていましたからね」。

 3年やったら壊れる――。その言葉は後に現実となる。球宴にも初出場した3年目は9勝3敗21セーブ、防御率2.00。4年目は2年連続で球宴出場を果たして7勝6敗23セーブ、防御率3.32で初めて最優秀救援投手のタイトルを獲得した。本格的に抑えに転向した2年目が47試合で85回2/3、3年目が44試合で63回、4年目が45試合で62回1/3と試合数を大きく上回る投球回数が回またぎの多さを物語る。

 負担がかかっていた体が、ついに悲鳴を上げたのは5年目の1997年。右肘が限界に達してトミー・ジョン手術を受けることが決まった。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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