タイトル獲得から4年…告げられた戦力外 なくなった“居場所”「高給取りだったから」

元ロッテ・成本年秀氏、右肘手術を経て先発で復活白星
元ロッテの守護神・成本年秀氏は、入団3年目の1995年に球宴初出場。4年目の1996年には7勝6敗23セーブで、最優秀救援投手のタイトルを初めて獲得した。年俸も1億円の大台に乗ったが、翌1997年にプロ野球人生が暗転する。春季キャンプ中に右肘に違和感を覚え、開幕直後に出場選手登録を抹消。その後は何とか調整を続けたが右肘の腱が切れていることが発覚し、9月にトミー・ジョン手術を受けた。
「もう1度、納得できるボールを投げたい」と復活へ意気込みながらのリハビリ。1年後の10月に黒潮リーグ(現在の教育リーグ)で実戦復帰した。「1年ぶりに実戦で投げて、来年は(完全復活)って思っていました。本当、1シーズン棒に振ったんですよね。それで(術後)2年目、先発で復帰しようと思った。やっぱりリリーフは負担がね。毎日準備しないといけないし、無理かなって思っていました」。
復活を期した1999年はキャンプから先発調整。「ず~っと(2軍本拠地の)浦和で先発で投げさせてもらって、夏ごろに1軍でってなったんですよ」。イースタン・リーグで16試合に投げて1軍にゴーサイン。8月22日の千葉マリン(現ZOZOマリン)での近鉄戦が、2年ぶりの1軍マウンドだった。1軍での先発はルーキーだった1993年以来6年ぶり。ここで6回2失点と踏ん張り、見事に復活勝利を挙げたのだった。
千葉マリンで初めて公式戦が開催されたのが1992年。成本氏は翌年に入団している。当時は万年Bクラス。観客動員も伸び悩んでいた。「ボビー(・バレンタイン監督)が来た時(1995年)、2位になった。Bクラスのチームが強くなっていく過程があったんですよね。勢いがあって面白かったですね。今は『千葉のロッテ』で定着して、あの応援、雰囲気が凄い。ボビーが来て、野球がメジャーリーグ、応援がJリーグみたいになって、盛り上がっていく最初の頃を知っていますから」。
スタジアムを埋め尽くしたロッテファンから送られた大歓声。「その時の応援は今も記憶に残っていますね。本当に感動しました」。だが、そんなにうまくは続かない。9月3日の日本ハム戦は1回2/3で降板。この年は1軍2試合登板で終わった。ここで再び心境に変化が訪れる。「ラスト(チャンス)だと思った」という2000年、救援への再転向を決断した。「自分の体を気にして、中途半端にやるより、自分を生かせるところで。リリーフとしてやろうと思ったんですよ」。

復活白星の翌年に戦力外…阪神の入団テスト合格、故郷で再出発
ただ、2000年には入団2年目の小林雅英投手が抑えに定着。「コバマサも出てきて戦力も変わりましたしね。(2軍では)まあまあ投げていたんですけど……」。1軍登板は1試合だけに終わり、オフに戦力外通告を受けた。「高給取りだったから球団としても何年も働かない選手を置いておくわけにはいかないでしょう」。球団からはフロント入りも打診された。「球団から頂いた話は本当にありがたかったのですが……。自分が32歳の時。まだできるって気持ちがありました」。現役続行にこだわった。
「このまま復活せずに終わるのは納得できなかった。もう1回しっかりやるために手術を決断したと思っているから、このまま活躍せずに現役を終えるというのは凄く嫌だったんですよ。『テストでも何でもいいので、挑戦させてください』って、木樽(正明チーフスカウト)さんに話をさせてもらいました」。10月に鳴尾浜で阪神の入団テストを受けて合格。生まれ故郷での再出発が決まった。
当時の阪神は「再生工場」として知られる野村克也氏が監督。ロッテ入団時の監督だった八木沢荘六氏が1軍投手コーチという縁もあった。幼少時「阪神タイガース子供の会」に入会するなど阪神ファンだった成本氏は「最後の挑戦になるという思いがあって、地元で最後頑張ってみようかなって思っていた。テストは15人ぐらいいたのかな。そこで選んでいただいて、秋のキャンプに来いと言われて、最年長で秋のキャンプに参加させてもらうことになりました」。ゼロからの出発。翌年はクローザーに指名され、復活の道を歩んでいった。
(尾辻剛 / Go Otsuji)





