海外挑戦も…登板中に「肘が飛んだ」 痛みに耐えて続投も首脳陣に「もう駄目です」

元ロッテ・成本年秀氏【写真:尾辻剛】
元ロッテ・成本年秀氏【写真:尾辻剛】

元ロッテ・成本年秀氏、2005年は台湾の統一でプレー

 元ロッテの守護神・成本年秀氏は2005年、台湾プロ野球の統一ライオンズでプレーした。開幕から先発として登板。だが、6試合目のマウンドで悲劇に襲われる。「もう1回、肘が飛んだんです。骨折したんですよ」。右肘骨折に加えて2度目の右肘靱帯損傷。退団を余儀なくされ、帰国して群馬県の慶友整形外科病院で緊急手術を受けた。

 前年の12球団合同トライアウト後、国内12球団からオファーが届かなかった成本氏に声をかけてくれたのが、統一の投手コーチ就任が決まった酒井光次郎氏。日本ハムと阪神でプレーし、現役引退後は台湾代表でも投手コーチを務めていた酒井氏から「成本君、良かったらウチで(投げる姿を)見せてくれない。一緒にやってくれないか」と言われたという。

 迷いはあったものの「そうやって言ってもらえるところがあるんだったら、一度、助っ人外国人の気持ちを味わってみようかと思いましてね」と海を渡る決断をした。ヘッドコーチは東映と阪急で活躍した大橋穣氏。異国の地で、周囲に日本人が複数いるのは心強い。「楽しくというか、居心地よくやらせてもらっていました。助っ人として外国人枠の中で行って、投げていました」と振り返る。

 当時の台湾プロ野球は1か月契約。「そんなに高くない」という月給は約80万円で、1勝につき約10万円の出来高があったという。そんな条件で奮闘していた5月。「試合で投げてるときに肘が『ボキッ』となったんです。『ウワッ』って思いました」。

 2死一塁の場面で「ここで降りちゃマズい」と思い、痛みをこらえて続投。「もう1球投げたら『フワフワフワ〜ッ』てチェンジアップみたいになってファーストゴロに打ち取ったんです」。何とかその回を投げ終えてベンチに戻り「もう駄目です」と首脳陣に伝えて降板した。

2度目の右肘手術後、トライアウトに意欲も…37歳で引退を決断

 6試合で2勝2敗、防御率3.90の成績を残して統一を退団。1997年のトミー・ジョン手術から8年、所属球団がない今回は自費での手術だった。しかも右肘の靱帯損傷と骨折。「骨をつなげる手術と靱帯を再建する手術、2つやらなきゃいけなかった」。

 ただ1度経験していた分、冷静な自分もいた。「2回目のリハビリだから、1回目にやったことをいろいろやっていました」。満身創痍の状態ながら9月にキャッチボールを再開。何と、この時「もう1回トライアウト受けようと思っていた」というのだ。

 そうやってリハビリを続けていた時に声をかけてくれたのが、2年前までプレーしていたヤクルト。翌2006年から古田敦也捕手が選手兼監督になるというタイミングで、1軍投手コーチ就任の打診を受けたのだ。若干の未練はあったが、バッテリーを組んだ“盟友”の船出に少しでも力になりたい思いが強くなる。

「あんまり周囲に話したことはないですけど、いろいろ経験してるんですよ。いろんなご縁に恵まれましたし、いろんな機会も与えていただきました」。タイトル獲得、カムバック賞の一方、3度の戦力外通告に12球団合同トライアウト挑戦、手術も2度経験した波乱万丈の野球人生。「ここまでか……。そうだな」。13年間の現役生活に別れを告げる決断を下したのは、37歳の秋だった。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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