日本で「のけ者になりたくなかった」 現実受け入れ人生一変…嫌がった“外国人扱い”【ペドラザ編①】

守護神として福岡移転後初のリーグ優勝と日本一に貢献したロドニー・ペドラザ氏【写真:産経新聞社】
守護神として福岡移転後初のリーグ優勝と日本一に貢献したロドニー・ペドラザ氏【写真:産経新聞社】

南海、ダイエー、ソフトバンク…新連載開始

 列島は愛知万博や小泉劇場に沸き、プロ野球界では初めてセ・パ交流戦が開催された2005年。「福岡ソフトバンクホークス」が誕生しました。この20年間でリーグ優勝、日本一ともに7度。今季こそ序盤は苦しい戦いが続いていますが、常勝軍団へと成長を遂げてきました。

 鷹フルでは新連載「鷹を彩った男たち〜ソフトバンクホークス20周年、紡ぐ想い〜」がスタートします。南海、ダイエーから続く鷹の系譜。ファンに愛され、球史を彩ってきたホークス戦士たちが、色褪せない記憶を語り継ぎます。

 第1回は、ロドニー・ペドラザ氏。ダイエー時代の1999年に来日し、守護神として福岡移転後初のリーグ優勝と日本一に貢献しました。当時の思いや今だから話せる出来事も。全4回にわたってお届けします。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 最終回のマウンドに君臨したあの頃から、もう四半世紀。白髪の55歳となった元絶対守護神はいま、米テキサス州に暮らす。

「所有する350エーカー(約141万6450平方メートル)の農場を酪農家の友人に貸して、生計を立てているよ」と人懐こい笑顔を浮かべる。350エーカーといえば、みずほPayPayドーム(建築面積7万平方メートル)の約20個分にあたる広大さだ。

「妻と一緒に午前4時45分に起き、6時半に孫娘を学校へ送りに行き、その後ジムに行ってトレーニングをする。家の掃除とか、農場の樹木や牧草の手入れとか、やることは結構あるよ。午後9時には寝ているね」。快活な口調からも、健康的な生活ぶりが伝わってくる。

 米国でメジャー経験のなかったペドラザ氏は来日1年目の1999年、王貞治監督(現ソフトバンク球団会長兼特別チームアドバイザー)率いるダイエーのクローザーを務め、48試合3勝1敗27セーブ、防御率1.98をマーク。26年ぶりのリーグ優勝に貢献した。セ・リーグ覇者の中日との日本シリーズでも、3試合(計3回1/3)を無失点に抑え(2セーブ)、チームを南海時代の1964年以来35年ぶりの日本一に導いている。翌2000年には51試合3勝4敗35セーブで初めて最優秀救援投手のタイトルを獲得。1999年のレギュラーシーズン、日本シリーズ、2000年のレギュラーシーズンと3度に渡って優勝決定の瞬間をマウンド上で迎えた。

旧知の仲だった元ホークス助っ人が縁

 ダイエー入団の経緯をこう振り返る。

「僕は、1991年から1993年までダイエーで投手としてプレーしたリー・タネルと、同じテキサス州出身で旧知の仲だった。1998年オフに、彼がダイエーの球団関係者から『誰か日本で活躍できそうな選手はいないか?』と聞かれ、僕の名前を出してくれた。僕はその球団関係者の前で投球を披露し、『日本でプレーすることに興味はある?』と聞かれて、『もちろんだ』と答えた。日本でプレーすることになれば素晴らしい経験になると思った。日本の野球については以前から、タネルに聞いていたからね」

 とはいえ、すんなり入団が決まったわけではない。「前年の1998年にダイエーでプレーしたブライアン・ウィリアムズ(投手)が残留するかどうか微妙だった。彼がMLB球団と契約を結んだお陰で、僕にオファーが回ってきた」と説明する。

 当初は先発要員として期待されたが、来日後に当時の尾花高夫投手コーチ、城島健司捕手(現ソフトバンクCBO)によって、リリーバーとしての適性を見出された。「僕はプロ入り後ずっと先発でやっていたけど、当時、(ダイエーの)先発投手はみんな大活躍していた。5人の先発投手が本当にいい投球をしていてね。『先発の枠に入るのは難しい』と言われて、『試合に出られるチャンスをもらえる限り、(先発投手としてプレーできなくても)構わないよ』という感じだったね」と語るが、この配置転換で異国での野球人生が開けたのだった。

 初セーブは1999年5月8日の西武戦(西武ドーム=現ベルーナドーム)。8回から2イニングを無失点に抑えた。「自分がセーブを記録したことに気づいていなかった。みんなに祝福してもらい、その時にチームからもう一度意思を確認されて、『僕には100マイル(約160キロ)の速球も、目を見張るような変化球もないけれど、ストライクを取れるし攻めの投球ができる。行けるところまでやってみるよ。僕にできるのはそれくらいだ』という感じだった。当時の最速は92マイル(約148キロ)くらいだったと思う」と目を細める。

鷹フルの単独インタビューに応じたロドニー・ペドラザ氏
鷹フルの単独インタビューに応じたロドニー・ペドラザ氏

退団から20年超「選手個々については…」

 多くの外国人選手と同じく、ペドラザ氏も来日当初は“日本の常識”に戸惑った。米国と違って試合前の練習時間が長く、試合のない日にも球場に集まって練習するケースも多かった。それでも「僕はできる限り、日本人っぽくやりたいと思っていた。外国人選手の中には、日本流を拒み、米国でのやり方を貫く人もいると聞いていたけれど、僕はチームの一員なのだとみんなに思われたかったし、のけ者になりたくなかった。(米国と日本の違いを理解する)コンディショニングコーチから『君はやらなくていいよ』と言われることも多かったけれど、全てとはいかないまでも、なるべくみんなと同じメニューをこなすようにしていた」と強調する。

 目の前の環境に溶け込もうとする姿勢が、躍進を支えた。「僕は来日にあたって、先入観を持たず、オープンな気持ちで臨もうと自分に言い聞かせていた。米国とは文化的にも、野球自体も少し違うだろうなと思っていたけれど、うまくやり遂げたいという気持ちが強かった」。

 来日3年目の2001年は54試合4勝34セーブで、2年連続でタイトルを獲得。2002年に34試合21セーブとやや成績を落とすと、巨人に移籍して翌2003年の1年間を過ごし、その年限りで33歳にして現役を引退した。

「日本で過ごした5年間は、間違いなく気に入っていたよ。文化を体験して、チームメート、ファンと触れ合うことができて、とても楽しい時間だった」と懐かしむ。「今もホークスの試合のスコアはほとんど毎日チェックするようにしている。選手個々については状況を把握してるわけではないけれどね……」といたずらっぽく笑う。

 ダイエーを退団してから20年以上が過ぎてもなお、“鷹愛”は健在。異国で出会ったさまざまな人への感謝は、今でも薄れることはない。中でも鮮明に思い出すのは、大エースと焼き鳥を頬張った夜のことだ。【第2回に続く】

※第2回は5月4日(日)公開予定です

ホークスをもっと深く知るなら!今なら初月無料で独自取材記事・動画が見放題

 ホークス専門メディア「鷹フル」では、今なら初月無料で現場取材で生まれた独自記事や、ここでしか見られない限定動画を体験できます。1軍からリハビリ組まで、ホークスに関わるすべてを、本気でホークスを愛するファンのために発信中。深い関係を築いた番記者だから伝えられる情報が満載です。選手たちの私生活や関係性に迫った5000本以上の記事が閲覧可能です。

徹底した独自取材
選手の本音や核心に迫る「鷹フル」

ホークス専門メディア「鷹フル」とは?

 ネットで調べれば、無料でいくらでもホークス情報が手に入る時代。しかし、そこには思慮に欠けた誹謗中傷もついて回る時代になってしまいました。平気で選手を傷つけ、純粋に応援したいファンの心を曇らせる。伝えたい思いは、雑音が邪魔してうまく届きません。だからこそ鷹フルは、本当にホークスを愛する人たちが、もっとホークスを好きになるための場所を作りたい――。

 心なき声を切り離すため、無料ではありません。記事や動画は誰にでも届けたい情報ではなく、真のホークスファンだけに発信します。選手の本音や核心に迫り、価格に見合った“価値ある情報”で、「毎日ホークスのある空間」を創っていきます。

ホークスの裏側、選手の素顔を徹底取材…オリジナル記事&動画、約5000本以上が見放題

ホークス専門メディア「鷹フル」では、今なら初月無料で現場取材で生まれた独自記事や、ここでしか見られない限定動画を体験できます。選手たちの私生活や関係性に迫った5000本以上の独自記事が満載です。 続きを読む

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY