巨人を「絶対に負かさないとアカン」 受けた父の影響…TV観戦で激怒「恐ろしいくらい」

長嶋清幸氏が語る野球人生…父や兄とのキャッチボールで鍛えられた
ここぞの場面での勝負強さは天下一品。1984年の日本シリーズでMVPに輝き、NPB初の背番号0をつけた選手としても知られるのが長嶋清幸氏だ。現役時代は外野手として広島、中日、ロッテ、阪神の4球団でプレー。コーチとしても星野阪神、落合中日で優勝を経験するなど手腕を発揮した。現在は愛知県犬山市の「元祖台湾カレー犬山店」のオーナーとして“活躍中”だが、その野球人生は奥深い。物心ついた時からキャッチボール、少年時代は熱狂的な阪神ファンだったという。
「きっかけは父親と兄貴ですね」。静岡県小笠郡浜岡町(現・御前崎市)出身の長嶋氏は、幼い頃から父・健吉さんと7歳上の兄・好幸さんの“剛速球”を受けていたという。「俺からしてみたら、とんでもなく速い球。オヤジも兄貴も俺をガキだと思って投げていなかったと思う。ホントに、すごいボールだったんだよね」。1961年11月12日生まれ。そんなキャッチボールが野球との“出会い”だった。
「生まれつき左利きなんだけど、大人用の右(利き用)のグラブしかなかった。手が小さいから反対にははめられなくてね。だから左で捕って、グラブを外して左で投げる。そういうふうにやっていた。そんな簡単にグラブを買ってもらえる時代じゃなかったからね」。友達とは三角ベースなどで遊んだ。「それとかフットベースボール。野球と同じように守ってサッカーボールを蹴る。そういうのをやっていた」。
運動神経は抜群。「軟式の黒潮少年団という野球チームに小学4年から入った。『あの小僧は4年だけど十分レギュラーをとれるぞ』とか言われてね」。小学5年、6年に混じってのプレー。「兄貴とかの球を見せられてきたから(1歳、2歳)年上のボールなんか、何かハエが止まりそうにしか見えなかったよ」。その頃に初めて左利き用のグラブを買ってもらったそうだ。「うれしかったね。逆に最初は慣れてなくて難しかったけどね」と振り返った。
父の影響によりアンチ巨人、阪神ファンに…憧れた藤田平の打撃
「守備はキャッチャーもやったし、どこでもやった。ピッチャーではけっこういいところまでいったんだよね」。小学校6年の時には主戦投手として静岡大会で優勝。「コントロールがよかった。打てるもんなら、打ってみろって感じで投げていたけどね」。その頃から闘争心むき出しで、ハートも強かったようだ。プロ野球は筋金入りの阪神ファン。「オヤジが何でか知らないけど阪神ファンだったので、俺もそうなったんだよね」と笑った。
当時のプロ野球中継は巨人戦ばかり。「鮮明に覚えているけど、オヤジが恐ろしいくらいに家でテレビに向かって怒鳴るんだよ。『今の(判定)はおかしいだろ!』って。ストライク、ボールの判定とかで『巨人にひいきしている』とか言ってね。そう言われて見たら、子ども心にも確かにおかしいんじゃないか、これなら巨人が強いのは当たり前、絶対負かさないとアカンよなぁ、みたいに思った。それで俺もアンチ(巨人)になっちゃった」。さらに阪神熱も上がったわけだ。
「ヨソの球団もあるなかで阪神っていうのは、オヤジの影響だけど、あのタテジマのユニホームが、かっこよかったんだよね、結局は」。好きな選手は阪神・藤田平内野手。「何であんな簡単に振って、あんなに飛ぶんだろう、すごい選手だなと思った。体のデカい外国人選手は、あれだけ力があって振れば飛ぶわなって思ったけど、藤田さんはすごく柔らかくて、飛ばせるし、打率も残すし、すごく憧れていました」と明かした。
野球帽ももちろん、阪神のTHマークのもの。「周りはほとんどが巨人の帽子をかぶっていた。俺だけだったね、阪神は。まぁ、友達も巨人のいいことを言ったら、俺がいっつも怒るから、俺の前では、誰もそんな話はしなくなったけどね」。そんな中で少年野球チームに入り、結果も出していった。中学、高校でも阪神ファンは継続。それこそ長嶋氏の野球人生は、タイガース応援とともに本格化していったと言えるのかもしれない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)