コブだらけの頭に泣いた母 便座に座れぬ痛み…ハードすぎた“指導”「死ぬかと思った」

広島などの4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】
広島などの4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】

長嶋清幸氏は静岡県自動車工で1年夏からレギュラー…超絶厳しかった上下関係

 広島時代の1984年に日本シリーズMVPにも輝いた長嶋清幸氏は、私立静岡県自動車工(現・私立静岡北)出身だ。1977年の高校1年時から外野のレギュラーポジションをつかみ、チームの主力として3年間を戦い抜いた。練習はハードだった。「基礎体力作りがもう尋常じゃなかった。死ぬかと思った」。今の時代では許されない激しい指導も受けた。「ケツバットで尻は真っ青だし、頭はコブだらけでバリカンが通らなかった時もあった」と話した。

 野球の実力が認められ、自動車工に進学。親元を離れての寮生活が始まったが「練習がやばかった。ホント、死ぬかと思った。特に冬場の体力作り。あれは尋常じゃなかったね」と振り返った。加えて、たとえ理不尽でも上下関係が超厳しかった時代。「野球の練習が終わって説教があって、寮に帰ったら今度は寮で説教があって、それから野球部の寮生だけの説教があって……。だいたい1日2、3回が毎日だった」。

 説教の理由は様々だが「自分が悪くなくても誰かが何かやったら全体責任だからね。まぁ、だから人のことは関係ないじゃなくて、人のことまでカバーしてあげて、何とかして乗り切っていこうよという、そういう力は自然と身にはついたけどね」と話す。「暴力は駄目だけど、誰が助けるとか誰がというのは、逆に今の時代はあまりないよね。今のプロ野球を見ていてもそう思うよ」とも付け加えた。

 長嶋氏の時代は、今では絶対許されない“指導”が当たり前のように存在した。「自動車工はサッカー部も強くて、俺が1年の時は全国大会(全国高校総体)にも出ていた。それで、帝京とか浦和南とかのサッカー部がわざわざ東京や埼玉から練習試合に来るわけ。そしたら全面でやるじゃん。野球場まで削られて、これでは(野球部が)練習できないということで、学校が隅の方に室内練習場を作ってくれたんだけど、これが最悪だった。周りから見えないからさ……」。

頭を触って泣いた母「死ぬんじゃないかと思ったって…」

 厳しい指導の場になってしまったそうで「ケツバットなんか、どれだけやられたか。泣きそうやった。便所にも座られないんだもん。もう真っ青になっているからさ」と言う。「頭もノックバットとかで叩かれてコブだらけ。バリカンが通らない。だから虎刈りみたいな感じで、ウチのお袋は俺の頭を見て泣いたもんね。お袋は結構我慢強くて頑張れ、頑張れと言う方だったけど、俺の頭を触って泣いた。死ぬんじゃないかって思ったって……」。

 当時でもあり得ないレベルの話に聞こえるが、そのまま高校生活は続いていった。長嶋氏もそれに耐え抜いた。耐えられると見込まれてもいたのかもしれないが「叩かれて痛みも知ったらね、喧嘩も強くなった。もうビビりがないからさ」と言い切るほど、タフに乗り越えた。「勉強以外は一生懸命やった。野球は絶対、手を抜かなかった。夜中に出歩いたり、悪さもしたけど、野球の練習はしっかりやったよ」。

 練習もハード、説教もハード、それこそすべてが終わった時にはクタクタだったはずだが、そこから寮を抜け出して街で遊んでいたという。「夜中に出ていることがバレないように、次の日も(野球を)頑張った。それも続けた」。1977年の1年夏、自動車工は静岡大会3回戦で静岡学園に1-3で敗れたが、実際、長嶋氏は外野のレギュラーポジションをつかみ、自身の野球のレベルも上げていった。チーム内外で一目置かれる存在になった。

「“なんでこいつ、あんなに遊んでいるのに、こんなに練習できるの”って言われるくらいやった。だから周りの人間が俺を認めてくれたと思う」。誰でもできることではない。人がまねできることでもないし、人に勧められることでもないが、のちにプロ野球の世界で見せた長嶋氏の桁外れの勝負強さ、勝負根性、精神力はそういう環境下で身についていたとも言えるのかもしれない。その身体能力の高さもあり、プロスカウトからもチェックされはじめた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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