阪神ドラフト指名の話もまさかの“反故” 消えた契約金2000万円…突如決まった広島入り

長嶋清幸氏に浮上した中日入り…問題になった「素行の悪さ」
NPBで通算1091安打、107本塁打をマークした長嶋清幸氏は、1979年ドラフト外で私立静岡県自動車工(現・静岡北)から広島に入団した。紆余曲折を経て“着地”した。社会人入りを検討していた中、プロ入りの話が急浮上。中日入りの流れになりかけたが、素行問題で消滅した。続いて阪神からラブコールを送られ仮契約も交わしたものの、ドラフトで指名されず宙ぶらりん状態。一転して広島入りとなった。決め手は広島・木庭教スカウトの“熱い言葉”だった。
長嶋氏が高校3年の1979年夏、自動車工は静岡大会4回戦で延長10回の激闘の末、静岡商に2-3で敗れた。甲子園は遠かった。野球も遊びも全力でやり抜いた高校時代。だが、小学校時代からの夢であるプロ野球選手になりたいという思いは「ちょっと薄れかけていた」という。「ずっと練習がハードだったし、こんなに自分を追い詰めて野球をやるよりも、楽しんで余裕を持ってやりたいなって気持ちが出てきた」と当時の心境を明かした。
「高校の監督に『プロに行く気あるのか』と聞かれた時も『もう今は考えたくないんですよねぇ』と言った。監督も『そうか、それやったらそれでお前の人生やからな』って。『大学なら専修、駒沢、法政には行ける。社会人はどこでも行けるぞ』という話もしてくれた。大学で東京に行く金はないし、そんなところで生活できないから、社会人に行くつもりだった。ヤマハ(当時は日本楽器)とか河合(楽器)とか大昭和(製紙)とかが静岡にあったのでね」。
その頃はまだプロスカウトが見に来ていたことも知らなかったそうだが、そんな時に中日の話が浮上したという。「高校の監督の親友で、よくウチのグラウンドにも来られていた方が(当時中日投手の)星野仙一さんの親友でもあったんです。その人が『プロ野球に興味ないのか』と言うから『興味がないというか、別にそんな話がないのに興味の持ちようがないじゃないですか』と話したら『だったら中日に言ったろか』となったわけです」。
そう言われてもピンと来なかった。「そんなこと、あるわけないじゃんと思いながら『じゃあお願いします』と軽い気持ちで言ったんです。そしたら本当に星野さんを通じて中日のスカウトに話がいったらしいんですよ」。しかし、実現しなかった。「中日のスカウトは『その選手のことは知っている。でも新聞関係のウチは、あの素行の悪さでは獲れない』と言ったそうです」。野球も凄いが、喧嘩も凄い。長嶋氏の“評判”がきっちり調査されていた。
ドラフト前に阪神との仮契約書にサインも…指名されず途絶えた連絡
「夜の街に出掛けては喧嘩を売られて、何じゃあ、とかやっていましたからね。そういうことじゃないのかな。俺はそんなに悪いとは思っていなかったんですけどね。俺ら“恐怖の黒ボタン”と言われていた。学生服のボタンが黒でね。『黒ボタンを見たらかかわるな』ってね。そういうのもひっかかったらしい。まぁ、俺としたら、ほら見ろ、やっぱりあるわけないじゃないかって思っただけでしたけどね」と振り返ったが、プロからの話は中日で終わらなかった。
今度は子どもの頃から大ファンでもあった阪神から直接声がかかった。「家まで(阪神スカウトの)田丸(仁)さんが来てくれた。そりゃあもう阪神だから、両親もウエルカム、ウエルカムみたいな感じですよ。ドラフト下位で指名すると言う話もあったけど、田丸さんは『たとえかからなくても(ドラフト外で)獲るつもりだ』とも言ってくれたんです」。話はドンドン進んだ。
「契約金が2000万と聞いて俺が目はハートになっちゃった。『それって(プロに入って)やめても返さなくてもいいんですか』と聞いたら『全然返さなくていいよ』って言われたから『それじゃ、プロに行きます』とすぐ言いました。何でそう聞いたかというと、3年やって駄目ならやめようと思ったから。昔からオヤジに何でも3年は辛抱しないと駄目だって言われていたんでね。で、その時にやめても契約金を返さなくていいと言われて、よっしゃいただきって」。
ドラフト会議前の段階で仮契約書にサインしたという。「年俸とかも全部書いてあるヤツにね」。その年の阪神ドラフト1位は早大の岡田彰布内野手。6球団が競合した中、抽選で交渉権を得た超目玉選手だ。当時のドラフト会議は指名選手は1球団4人以内のルール。長嶋氏の指名は阪神も含めてどこの球団からもなかったが「お金さえもらえれば、ドラフト外でいいと思っていた」。当然、阪神に行く気満々だった。
広島・木庭スカウトが“ラブコール”「悪さしたらすぐバレる」
ところがドラフト後、阪神からの連絡はプツリと途絶えた。「大丈夫かなって思い始めた頃に広島(スカウト)の木庭さんから連絡が入って、家に来られたんです」。高校2年の練習試合で「ホームラン打てるかぁ」と声をかけてきた人が木庭スカウトだった。その時、長嶋氏は「打つよ」と答えて一発を放ったが、それ以前から調査していたことも知って「ホントに一生懸命やっていたら、見ている人は見ているってこういうことなんだなって木庭さんの話に感動した」という。
「でも阪神と仮契約しちゃっているし、今から広島ってわけにもいかない。両親も阪神に行けって感じだったしね。そしたら木庭さんは『よく考えて。これだけ悪さする坊主が大阪みたいな都会に行ったら絶対野球が駄目になる。でも狭い広島ならちょっとでも悪さしたらすぐバレるから、広島の方がいい』って。そしたらウチの親も『じゃあ、よろしくお願いします』となっちゃったんです」。それで一気に広島に傾き始めたという。
「阪神のことがあるので『一応待ってください、阪神が駄目になったりしたら連絡させてもらいます』と伝えたんだけど、それから1週間くらい経っても阪神からは何もなし。親も心配になって、もう広島に行けって話になったんです」。契約金は税金を計算してもらった上で残りの金額をすべて親に渡したという。「これで両親に恩返しが何とかできたかなと思った。あとはプロで活躍できればそれもプラスになるし、活躍できなくても一応って感じでね」。
長嶋氏は後に広島、中日、ロッテを経て1994年から阪神でもプレーすることになるが、そこで自身のプロ入り時の阪神の状況を詳しく知ったという。「当時の(阪神)小津(正次郎)球団社長が俺を獲るのを反対したそうです。田丸さんはそれに怒って、社長に向かって『アンタねぇ、この選手を獲らんかったらウチはこいつにどれだけやられるかわからんよ。それだけは覚悟しとけ』みたいなタンカまで切ったらしい。その時の関係者に聞きました」。もめた状態がずっと続き、連絡が遅れ、その間に長嶋氏の広島入りが決まった。
「俺、結構阪神戦で打たせてもらったし、変な意味じゃなくて田丸さんにも恩返しができたんじゃないかなと……」。広島からスタートした長嶋氏のプロ野球人生だが、高校3年の時に絡んだ中日にも阪神にも、その後在籍した。それも不思議な縁。「最初の入りは違うけど、結局両方に行けたわけで、この縁はスゲーなぁって思いましたね」としみじみと話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)