プロの練習に“絶望”「レベルが違う」 舐めてかかるも…高卒新人が直面した壁

元広島・長嶋清幸氏、山本浩二の目に留まりチャンスつかむ
いきなり勝負強さを発揮した。私立静岡県自動車工(現・静岡北)から広島にドラフト外入団の長嶋清幸氏は1年目(1980年)の宮崎・日南キャンプでプロの厳しさを目の当たりにした。「もっと力をつけなきゃいかん」と痛感し、必死になったという。そこから自身で流れを変えた。山本浩二外野手に打撃力を評価されチャンスをつかみながら、いったんは怪我で無念のリタイアとなったものの、そこからさらに……。
広島の練習はハンパではなかった。「高校(自動車工)の時に死ぬかと思うほど、しんどい練習してきたから、プロなんか楽勝だろうって思っていたけど、プロの練習の方が全然しんどかった。注目度とか、そういうのもまた何か違うんだよね。圧迫感というか、圧力もあった」。長嶋氏は背番号66で2軍スタートのプロ1年目のキャンプをそう振り返った。「だってアップが、よーいどんから2時間とか2時間半だよ。あんなのアップじゃないよ、トレーニングだよ」。
驚いたのは、どの先輩選手も、つらそうな顔を全く見せずにこなしていたことだった。「やっぱりプロはすごいと思った。レベルが違う。高校の時はへたればっかりの中だったから、俺がヘトヘトやなぁって思ったら、周りはもっとヘトヘトになっていたけど、プロは周りがみんな平気なんだよ。ヘトヘトのことをしても、そんな格好は見せられない、たとえ空元気でも大丈夫、大丈夫って感じでやらなきゃいけないみたいな……」。
ただし、へこたれなかった。「この人たちに勝つにはやっぱりもっと力をつけなきゃいけないなって思った」。気合を入れ直した。さらにスイッチを入れるところが長嶋氏の真骨頂だ。「あの頃のキャンプって(日南市)天福(球場)で1軍も2軍も同じだった。2軍は室内でやって、あと(打撃練習はネットの中でマシン相手の)鳥かごでやるとか。(メインの球場は)時間帯で空いていたら使わせてもらうみたいな感じだった」。与えられた場所で必死に汗をかいた。
「最初は俺なんかのこと、2軍でも誰も見てくれなかった。これやっとけ、あれやっとけって言われるだけでね。そりゃあ、全国的に考えれば俺はドラフト外の誰だかわからんような選手だからね。でも、そんなのも気にはしなかったよ。とりあえず、プロで3年間頑張ろうって思って入ったしね」。そんな環境でも気を抜かずに練習に励んだ。それがチャンスにつながった。持ち前の打力が“ミスター赤ヘル”の目に留まった。
「(2軍の)バッティングコーチだった佐野(嘉幸)さんに『鳥かごで打っとけ』と言われて打っていたら、そこを山本浩二さんが、たまたま通りがかったそうです。俺は全く知らなかったんだけど、その時に浩二さんが周りの他の選手に『こいつ、ええスイングしとるぞ、先々ものになるぞ』って言ったそうなんです。それがコーチの耳にも入って、次の日に『お前、メインでバッティングしてみろ』って言われたんです」
アピール成功も張り切りすぎで怪我→キャンプ離脱
いきなりの“大抜擢”だった。「そこまでのキャンプで俺、一度もメインでバッティングをしたことがなかった。2軍には俺より7つも8つも年上の人がいるし(2軍がメインで練習するときは)そういう人たちがバッティングしていたのでね」。18歳のドラフト外高卒ルーキーはただものではない。そこで緊張するどころか、勝負強さを見せつけた。「天福(球場)のスタンド(右翼)99メートルの崖まで飛ばした。初めて外で打って、めっちゃ気持ちよくてね」。
1軍の古葉竹識監督もそれを見ていた。「後になって、いつだったか言われたんですよ。『お前があの時、天福のあそこの崖に打ち込んだ時はびっくりした。絶対ものになると思った』って」。チーム内での長嶋氏への注目度も、このメイン打撃の結果で一気にアップした。まさに、一度のチャンスで自身の“流れ”を変えたが、1年目キャンプはその後につまずいた。「内転筋を痛めて、キャンプの途中から練習ができなくなった」。
この怪我について長嶋氏はこう話す。「(メイン打撃で)注目を浴びるようになっちゃったんで、調子こいて、もっと練習しないといけないと思ったんだよね。高橋(慶彦)さんとかを見ていたら、スーパースターが、こんなに練習するんだから、俺なんか、この倍はせなアカンわと思ってね。まだ、そこまでの体力がなかったのに、頑張ってやっていたら、内転筋をプチッとやっちゃったんだよ」。無念のリタイアだった。
だが、ここからまた勝負強さを見せた。「治ったのは2軍の開幕ギリギリ。練習ができるようになったのはその頃で、2軍でもスタートは補欠だったんだけど、開幕戦で外野手が2人怪我したんですよ。確かまだ1軍はオープン戦中で、元々、何人か1軍に行っていて、選手が少なかった。それで開幕2戦目から俺が出ることになった。近鉄戦で向こうの先発が同学年の山村(達也、ドラフト3位、泉州高)。その試合で、3本打ったのかな。そこでまた注目してもらった」。
代役スタメンを足掛かりに結果を出し続けた。「結局2軍では開幕戦以外は5月までずっとスタメン。結構打っていたと思う」。チャンスをつかんだら逃さなかった。のちの長嶋氏は1984年の阪急との日本シリーズで3本塁打10打点の活躍でMVPに輝くなど効果的な一撃を放つ勝負師として名を馳せるが、その片鱗は1年目(1980年)の早い時期からあったわけだ。何かが違う。何かを持っている。周囲にもそう感じさせた高卒ルーキーは5月中旬に1軍へ昇格する。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)