高卒1年目で初出場も「やっぱり無理やわ」 痛感した1軍の壁…礎となった“屈辱の4球”

広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】
広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】

元広島・長嶋清幸氏、空振り三振デビュー

 1979年オフにドラフト外で私立静岡県自動車工(現・静岡北)から広島入りした左打ちの外野手、背番号66の長嶋清幸氏は高卒1年目(1980年)の5月17日の中日戦(ナゴヤ球場)でプロ初出場を果たした。9回に代打で出て中日・金井正幸投手の前に「4球三振でした」。全球を振って最後は空振り三振に倒れ「これは無理やな」と1軍レベルにショックを受けてベンチに戻ったところ思わぬ反応が……。球界を代表する左腕・江夏豊投手に頭を撫でられ、褒められたという。

 デビュー戦は長嶋氏にとって“ナイターデビュー”でもあった。「打席に入った時、緊張とかではなく、何か、めっちゃ幸せな気分だった。“俺、こんなところに立ってええんかなぁ、ウワァ、俺、プロ野球選手やん”みたいな……」。カクテル光線に照らされて心が躍った。誓っていたのはバットを振ること。「先輩たちによく言われていたんですよ。『お前な、初打席に立った時にはな、絶対に見逃し三振はアカン。絶対振らなアカン』ってね」。

 中日右腕・金井が投じる球を全部振った。だが「ファウルもあって4球三振。球が速く感じて、やっぱり俺、無理やわ、これではプロでやっていけねーなって思った。ショックだった」という。「そしたらベンチに戻るといきなり江夏さんに頭を思い切り撫でられたんだよ。『よう振ったぁ、お前、絶対成功するわ!』って。三振して褒められたのは初めてだったから、心の中では『ウワァ、俺、絶対バカにされている』って思いながら『頑張ります』と言っていたんだけどね」。

 他の選手の反応も同じだった。「『よう振れたなぁ。普通プロ野球の初打席って振りたくても振れないもんだよ』ってね」。宿舎では、その試合に5番・一塁で出場していた主力の水谷実雄内野手から部屋に呼ばれた。「『どうやった?』と聞かれて『めっちゃ速く感じました』と答えたら『2軍ではナイターがなかったんやろ、それはしゃあないわ、そのうち当たるようになるから心配するな、今日は振れたことが一番ええことなんや』と言われた」という。

大下剛史コーチが命名した愛称「マメ」…他球団にも浸透

「それでも俺は“いや、そういう問題じゃないんだけど”と思っていた。何で当たらなかったんやろ、何でやろ、それがわからなくて悩んだ。でも絶対に打ったろうって気持ちにもなった」。三振した時の「無理やわ」からも切り替えた。「今考えたら、(高校時代に)悪さした時のあのスリルじゃないけどドキドキ感と、大観衆の前で試合するのとワクワク感が一緒なのかなぁって思う。生きるか、死ぬか。喧嘩に勝つか、負けるか、俺、打席の中でよくそう考えていたんだよね」。

 褒められたとはいえ、三振デビューで、このままで終わらないとの思いを強めた。「絶対に勝つという気迫。その気迫と自分の体をどう一緒にできるか。そういう時って力みが出るから、自分がこういう感じで動いているというのがわかるくらい冷静さも保てないと駄目。アホみたいに単につっかかっていったって、相手の思うツボになるんでね。喧嘩の強いヤツって余裕っていうか威風堂々としている。それと一緒なんだよ」。持ち前の闘争心にも火がついた。

 長嶋氏の愛称は「マメ」。「最初は(守備走塁コーチの)大下(剛史)さんに『お前、背はこまいのに体はがっちりして、マメタンクみたいやのお、それじゃ長いから(呼び名は)マメでええな』って言われた。かわいがってくれた高橋(慶彦)さんも『マメ、マメ』と呼んでくれてね」。170センチと小柄ながらパンチ力十分で、ただならぬ気迫も感じさせる逸材としてインパクトもあったのだろう。「マメ」は広島だけでなく、他球団の選手、関係者にも浸透していった。

「3年で駄目なら辞める」。そんな決意を持ってプロに入った長嶋氏にとって、高卒1年目から勝負のつもりだった。もちろん、プロの世界はそんなに甘くない。まだまだクリアしなければいけないものがあったし、思わぬ怪我も含めて、いくつもの壁が立ちはだかった。だが、どんな状況に陥っても簡単に諦めなかったのも事実だ。1980年5月17日の三振デビュー。それはプロで戦い抜く上での礎にもなった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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