元西武右腕が議員秘書に転身…60代での挑戦 深夜12時の会議「全然違う世界」

鈴木哲氏が語る大事の人生…独学の英語「ひとりでいかせてくれ」
西武、広島で8年間プレーした鈴木哲氏は現役時代、度重なる肘の故障に悩まされ、特に広島時代には「あの投げ方だけが痛くなかったんです」とサイドスローへと転向した。1994年には自己最多の36試合に登板し、防御率2.62と中継ぎとして活躍を見せたが、痛みに耐える日々。1997年を最後にユニホームを脱いだ。
黄金期のチームに在籍し、自身は肘痛に悩まされ、出場機会は限られた。現役を終えた鈴木氏は、西武球団のフロントへ。多方面でその能力を発揮していくことになった。引退後、最も長く在籍したのは渉外部、すなわち外国人選手担当だった。英語は自己流で学び「受験勉強はしていたので、単語は覚えていましたが、しゃべったり聞いたりというのはなかなか大変でした」と振り返る。
語学習得のために最初に行ったのは、自分自身を追い込むこと。「誰かと一緒だと日本語で話してしまうので、2年目からはアメリカに一人で行かせてくださいと球団にお願いしました」。飛行機の時間変更や欠航……。慣れない環境でトラブルも多かった。中でも、鬼門はシカゴの空港だった。入国検査で3度の別室行きを食らったという。
「『なんでそんなことを聞くの?』というような質問をされるんです。実際にそう尋ねたこともあるんですけど、『オレも命令でやっているだけだから』って。別室に連れて行かれる理由も、絶対に教えてくれなかったですね」。思い当たる理由も全くない。「もしかすると、シカゴの空港でマークしている人物と似ているのか、あるいは目のスキャンをした時のデータが、そういう人物と似ていたのか。全部推測ですけどね」。今でこそ笑って話せるが、当時はほとほと困らされたという。
渉外部ではスカウトから契約書作成までを一人で担う「時間との勝負」
渉外部は実務の幅も広かった。スカウティングから契約交渉、ビザの取得、航空券や住まいの手配、英語での契約書作成まで、すべてをひとりで担った。「時差の関係で、どうしてもやりとりは深夜か早朝。アメリカは年末に休みに入るので、12月20日が実質の交渉締切日でした。タイトな日程で、時間との勝負でしたね」。そんな苦労もあったが、「給料をもらいながら勉強させてもらったようなものです」と笑う。
西武で球団職員として24年間を過ごした後、独立リーグでの監督経験を経て、地元・福島へと戻った。転機になったのは、福島で開催されていた早慶OB戦。会場で、早大OBである衆議院議員・亀岡偉民氏に声をかけられた。「人手が足りないから手伝ってみないか」。その一言で鈴木氏は、国会議員秘書の道へと足を踏み入れる。
「全然違う世界。選挙なんて本当に短期決戦。夜中の12時からミーティングなんて普通にありました。新しい世界に飛び込んで、一生懸命勉強しています」
60歳を過ぎてからの挑戦。「これまでの経験が、少しでも役立てばうれしい」と話すその表情には、プロ野球選手だった頃と変わらぬ情熱が宿っていた。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

