手放せぬ鎮痛剤、ベッドから立ち上がるのに15分…「野球が嫌いになる」寸前の15年間

ダイエー、ソフトバンクで活躍した柴原洋氏
巧みなバットコントロールと華麗な外野守備で、福岡の地を幾度なく沸かせたヒットマンも、5月23日で51歳を迎えた。「よく15年間もやったなと。楽しみなんてなかったかもしれないですね。これ以上やり続けると、野球が嫌いになるんじゃないかと思ったこともありました」。柴原洋氏の穏やかな口調が、プロの厳しさを際立たせていた。
1996年ドラフト3位でダイエーに入団した。福岡県北九州市で生まれ、北九州高、九州共立大を経て地元球団で15年間の現役生活を全うした。入団2年目の1998年に定位置をつかみ取ると、翌1999年のダイエー初優勝にも貢献。その後も主力の一員としていぶし銀の働きを見せ、“黄金期”の礎を築いた。
一見輝かしいプロ野球人生も、柴原氏が明かしたのは苦悩の日々だった。「プレッシャーとの戦いでしたね」。チームが強くなるのと比例して、本拠地には多くのファンが集まるようになった。常に求められるのは“勝利”の2文字。「それくらい精魂を込めて、苦しい思いもしながら戦っていたなという印象です」と振り返る。
30代半ばを迎えてからは自身の体との戦いも待っていた。「苦しかったですね。朝起きるのも大変でした。起きたらまずはベッドに腰掛けて、15分してやっと落ち着いて立ち上がれる。そういう日々が何年かは続きましたね」。日常生活に支障が出るまで酷使してきた体は悲鳴を上げていた。
中学時代から患っていた分離症
プロ入りよりもずっと前から、持病と付き合っていたという。「もう中学校時代から(腰椎の)滑り症や分離症を持っていたので。若いころは(症状が)出なかったんですけど、35歳前後くらいから徐々に出てきて。(2008年の)オールスターにファン投票で選ばれたんですけど、ヘルニアで出場辞退になって。ファンの方にすごく申し訳なかったなって思いますね」。
戦いの場は徐々にグラウンドの外へと移っていった。「カイロプラクティックや整骨院に行って。ボルタレン(鎮痛剤)を飲んだりもしていました」。それでも弱音は吐かなかった。「みんなそうだったと思うんですよね。ピッチャーも中継ぎの人たちは毎日ボルタレンを飲んで投げている人もやっぱりいたので。そういう痛みをどこかに持ちながら、その時の人たちは戦っていたのかなと」。
ついに限界が訪れた。2011年オフ、37歳で静かにユニホームを脱いだ。15年間のプロ野球生活で通算打率.282、1382本もの安打を積み重ねた柴原氏。打撃タイトルに縁はなかったが、外野部門でベストナインを2度受賞、ゴールデン・グラブ賞を3度獲得するなど、プロ野球選手として高いレベルでバランスの取れたプレーヤーだった。
「(現役を)楽しく終われた人はいるのかなって。好きなことが仕事になって、好きな野球で苦しい思いをする。大変であることは間違いないですね」。そう振り返った上で、さらに続けた。
「でも、目標を持って臨んだ結果、それが職業になって。僕にとっては『頑張ってよかったな』って。ホークスで野球ができてよかったです。本当に」。苦しみがあるからこそ、人生はより輝きを増す。柴原氏の「15年」がそれを教えてくれた。
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(長濱幸治 / Kouji Nagahama)

