“側近”が明かす長嶋茂雄さん 大谷翔平との対面にも同席…見続けた壮絶リハビリ

1993年から2001年までの第2次巨人監督時代に専属広報として支えた
“ミスタープロ野球”と呼ばれた読売巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄氏が亡くなった。第2次巨人監督時代(1993~2001年)にずっと専属広報として寄り添った小俣進さんも、万感胸に迫る思いだ。
「マスコミで紹介されている通りで、裏表なく、いつも明るく、誰にでも気さくに接する方で、“気遣いの人”でもありました」。こう語る小俣さんは、長嶋氏の第1次巨人監督時代(1975~1980年)には投手としてプレーしていた。1985年限りで現役を引退し、長嶋氏が1993年に2度目の巨人監督に就任すると、専属広報に指名された。長嶋氏の移動や早朝の散歩には、常に当時1軍サブマネジャーの所憲佐さんとともに両脇を固めるように寄り添い、担当記者からは水戸黄門になぞらえ「ミスターの助さん・格さん」と呼ばれていた。
小俣さんは巨人を退団した後も、長嶋氏が公の場に出る時には付き添った。今年3月15日、長嶋氏が巨人とドジャースのプレシーズンマッチが行われた東京ドームを訪れ、大谷とツーショット写真に収まった時も同様で、小俣氏にとってもこれがミスターとの最後の対面になった。
「長嶋さんは監督在任中、移動中もファンから声がかかれば笑顔で応じましたし、時間が許す限りサインにも応じていました。そういえば、あれだけの有名人でしたが、変装して身を隠すようなことは一度もなかったと思います。巨人担当のマスコミには親しく接し、頻繁に飯会やらお茶会やらを開いていました。『夕刊紙向けには、こういうネタがいいのかな?』なんていうところまで細かく気を配っていました」と振り返る。
若い野球ファンは知らないかもしれないが、長嶋氏の存在は当時の球界、いや日本社会において絶大で、現在のドジャース・大谷翔平投手に勝るとも劣らなかった。それを象徴する例として、当時巨人が遠征で飛行機移動する際、各スポーツ紙の“長嶋番”記者は荷物を預けることができず、大きなバッグを抱えて歩かなければならなかった。ミスターが飛行機から一歩外に踏み出してから、空港に横付けされたバスに乗り込むまで、一瞬たりともそばを離れず、一言一句たりとも聞き逃さないことが求められていたからだ。ここまで一日中、注目を浴び続けた人を他に見たことがない。
「俺たちが絶対、勝つ!」伝説の舞台裏…「腹が据わっていた」
長嶋氏が2004年3月に脳梗塞に倒れ、右半身に麻痺が残ると、小俣さんは壮絶なリハビリにも付き添った。「ほとんどの人が1か月も続かないような、苦しいリハビリ……というか、過酷なトレーニングでした。しかし長嶋さんは自分もキツいはずなのに、いつも周りの人たちに『頑張りましょうね』と声をかけていました」
“勝負師”としての長嶋氏の凄さを思い知られた出来事といえば、「やはり10・8でしょう」と小俣さんは即答する。1994年10月8日、長嶋監督率いる巨人はナゴヤ球場でシーズン最終戦の中日戦に臨んだ。勝った方が優勝という球史に残る一戦。「選手もコーチ陣も、観客もマスコミも、僕ら球団スタッフも、誰もが試合前から極度に緊張して声も出せない状況でした。ところが長嶋さんだけは余裕の笑みを浮かべ、楽しそうだったのを覚えています。大舞台になるほど喜々として力を発揮する人でした」と回想する。
この“10・8”の試合前、宿舎で行われたミーティングで、長嶋氏は「俺たちが絶対に、勝つ!」と鼓舞し、ナインから「ウォー!」と言葉にならない雄叫びが上がったといわれている。一方で、「俺たちは絶対に勝つ、勝つ、勝つ!」と連呼したという説もある。小俣氏は「私もどちらだったか、はっきり思い出せません。何しろ、あのミーティングの段階で緊張していましたから。とにかく、長嶋さんだけは腹が据わっていたのだと思います」と苦笑する。
長嶋氏の野球人生は現役時代から様々な伝説に彩られてきたが、この“10・8”に6-3で勝ち名古屋の夜空に舞ったことは、重要なクライマックスのひとつだろう。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)