計算し尽された“ミスター”のあり方 長嶋茂雄さんとは一体…元巨人広報が衝撃「本人だけが冷静」

巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さん【写真:小池義弘】
巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さん【写真:小池義弘】

第2次監督時代を含め16年間広報担当として巨人を支えた香坂英典さん

“ミスタープロ野球”こと読売巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄氏が亡くなった。第2次巨人監督時代(1993~2001年)に球団広報部員だった香坂英典さんは「長嶋さんはエンターテイナーの鏡で、われわれ広報担当者にとっては“目の前にいる教科書”でした」と振り返る。

 香坂さんは1979年ドラフト外で、中大から投手として巨人入り。プロ1年目の1980年は、長嶋氏の第1次巨人監督時代(1975年~)の最終年にあたっていた。1984年限りで現役を引退し、1992年からは長嶋氏の第2次監督時代の9年間を含め、16年間広報担当としてチームを支えた。

 当時は巨人の全試合が地上波で中継され、現役時代からスーパースターだった長嶋監督を中心に、松井秀喜氏、清原和博氏ら超人気選手がめじろ押しだった。「広報担当者としては、長嶋さんの立ち居振る舞いの全てが勉強になりました。とにかくファンの皆さんに楽しんでいただいきたいのだという気持ちが、ガンガン伝わってきました。一方、メディアに対しては、自分が何をして、何を話せば、どう伝わるのかを、その効果を含めて計算していたと思います。だからこそ、失言は一切なかったし、ノーコメントで逃げることもありませんでした」と語る香坂さんの口調にも熱がこもる。

 監督在任中も全国的に注目されていた長嶋氏だが、移動中に空港や駅などでファンから声をかけられると、「こんにちは、どこから来たの~?」と自ら歩み寄ることもあった。「ファンが興奮して突進しパニックになる可能性もあるわけで、私は最初『そこまでやるのか?』『ファンとの距離が近すぎる』とハラハラしていました」と香坂氏。「しかし後で考えてみると、全て計算ずくで、ちゃんと状況を確認し、ファンと絶妙の距離感を取っていました。特に女性にはやさしくて紳士的でした。ファンも必死、メディアもエピソードや映像を取ろうと必死な中で、長嶋さん本人だけが冷静だったと思います」と続けた。

 そんな長嶋氏の背中を見て、当時の人気選手たちもファンやメディアに対し比較的フレンドリーに接した。香坂さんは「選手たちは普通、悪気はないのですが、練習中だったり忙しかったりして、長嶋さんのようにファンやメディアを気遣うことはなかなかできない」とした上で、「特に松井は、ファンにもメディアにも愛される選手に育ってくれました。プロ入り当初の彼に対して、私はいろいろ教える必要がなくて、ただ『今日の監督を見たか?』と問いかけ、監督の立ち居振る舞いの真意を説明するだけでよかったのです」と回顧する。

「われわれは人気商売なのだと、長嶋さんを見ていて再認識しました」というのが、広報担当者としての香坂さんの感慨だ。

松井秀喜氏もミスターの背中を見て学んだ「今日の監督を見たか?」

 一方、長嶋氏には当然“勝負師”としての一面もあった。第2次監督時代の1994年には、シーズン最終戦の10月8日・中日-巨人戦で勝った方が優勝という状況に持ち込まれた。球史に残る“10・8”である。

 香坂さんは「10・8の試合前のミーティングで長嶋監督が『今日の試合は、勝つ!』と選手を鼓舞した時の、部屋中に響き渡る声と鬼の形相を、私は生涯忘れないと思います」と語る一方、同年のシーズン中に、長嶋監督の口から「今日の試合は負けてもいいんだ」と真逆の言葉を聞いたこともあったという。

「当時の巨人は“投高打低”で、全く打てない時期があった。そういう時に長嶋さんは『ベストを尽くせばいいんだ』という文脈の中で、思わずではないですが、『いや、負けたっていいんだよ』とおっしゃったのだと思います」と香坂さんは笑う。「私がプロ野球に携わった経験の中で、ミーティングで『今日の試合は勝つ』という言葉を口にした監督は他にいませんし、もちろん『負けていい』と言った監督もいません。やはり常人とは違う、超越した感性を持っていらっしゃったのだと思います」と述懐した。

「SNSがまだなかった時代に、長嶋さんは発信することの大事さを理解し、実践されていたのだと思います」との認識を抱く香坂さん。「今でも、長嶋さんはどういう気持ちでああいう行動を取ったのかとか、考えたり昔の仲間と語り合ったりするだけで何時間でも過ごせます。今後もそうだと思います。そういう意味でもやはり“永久に不滅”の人です」と、ありし日に思いを馳せた。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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