元虎戦士を虜にしたスター軍団「ファンクラブにも」 巨人戦ばかりでも…目に留まった一瞬

元阪神・狩野恵輔氏、少年時代は西武ファン
阪神一筋17年、捕手として、外野手として、代打の切り札として活躍したのが狩野恵輔氏だ。現在は野球評論家として活躍中だが、その現役生活は育成契約を経験するなど、苦しいことを何度も体験。それをはねのけて、踏ん張って、新たな活路を見いだして乗り切ってきた。群馬・前橋工時代には「上州の掛布」と呼ばれるなど虎との縁も、その頃から始まっていたのかもしれないが、少年時代は西武ファン。西武のエース・渡辺久信投手との“つながり”もあったという。
2000年ドラフト3位で阪神入団、前橋工では強打の捕手として知られた狩野氏は、虎の偉大なレジェンド・掛布雅之氏に例えられた当時の呼称とされる「上州の掛布」について「1回か2回、どこかにそう報じられただけだと思います」と苦笑した。「ホント、よくわからないんですよ。だって掛布さんは左バッターだし、サードだし……。高校時代から大人びた風貌だったから、とか言われるけど、僕からしたら、それも“えっ”て感じでしたよ」。
自身にとって意外な驚きの“代名詞”だったようだが「今思えば、それもよかったなぁと思っていますけどね」とも言う。「(プロで)初めて掛布さんに会った時に『実は僕、“上州の掛布”って言われていたんです』と言ったら『お、ホントかぁ』みたいに言ってくれて、そこからかわいがってもらいましたしね」。プロで着たユニホームはタイガースだけ。現在も関西で暮らし、藤川球児監督率いる阪神の試合を中心に野球評論家として活動している。
阪神との縁は深く、高校時代に「上州の掛布」と呼ばれたことも、その予兆だったように見えなくもないほどだが、1982年12月17日生まれ、群馬県勢多郡赤城村(現・渋川市)出身の狩野氏が少年時代に夢中になったのは、虎ではなく獅子。熱狂的な西武ファンだったという。「清原(和博)さんらがいた超強かった時の西武。ファンクラブにも入っていました」。それには、当時のレオのエース・渡辺久信との“関係”もあった。
「前橋工出身の渡辺さんは結局、僕にとって高校の先輩にもなるんですけど、渡辺さんの高校時代に前橋工の監督だった狩野学さんが僕の父方の遠い親戚なんですよ。本家が一緒みたいな。家も近所で僕は『学さん』と呼んでいたし、同級生のお父さんでもあったんです。渡辺さんは群馬県のスターですし、そんなところから西武を見るようになって、ファンになりました。夏休みは横浜の方の海に行った帰りに西武球場で応援するのが毎年でしたね」
小3で野球を始め三塁手か投手も「めちゃくちゃノーコン」
周りにも西武ファンは多かったという。「強かったですからね。友達も西武ファンか、巨人ファンかって感じでした。阪神ファンは少なかったと思いますけどね」と話す。「でも、テレビ中継は巨人戦ばかりでしたよ。たまにNHKが違うカードをやるくらいでね。ただ、何チャンネルだったか忘れましたけど、土曜日か日曜日の(番組で)朝5時半くらいに西武コーナーがあったんです。それは見ていましたね」。西武情報を得るために早起きするほど入れ込んでいたわけだ。
幼い頃から野球は身近だった。「きっかけは4つ年上の兄貴が野球をやっていたからですね。小学校2年生くらいからかなぁ、兄貴の練習を見に行ったりして“ウワー、やりたいな”みたいな。それが最初ですね」。赤城村立(現・渋川市立)津久田小の在校生を中心とした地域の軟式少年野球チーム「津久田レッドキャップ」でプレーする兄・貴紀さんの姿に憧れた。「記憶が曖昧なんですけど、確か小3の冬かなと思う。僕もレッドキャップに入りました」。
ポジションは三塁手か投手。「みんながやれるところをやるって感じ。うまい子がピッチャーとかね。僕はめちゃくちゃノーコンだったんですよ。全然ストライクが入らなくて。だからサードの方が多かったと思います」。とはいえ、目立つ存在だった。「正直、運動神経だけよかったと思います。昔から何でもそつなくできる。何でもできたと思います。まぁ、器用貧乏ですかね」と笑うが、小6ではキャプテンも務めて赤城村の大会で優勝するなど、結果も出したそうだ。
「6年の時は監督が父でした。地域の楽しむ野球って感じでね」。ライオンズを応援しながら、自身もまた野球にのめり込んでいく日々で、夢はプロ野球選手になること。「(渡辺)久信さんもいて、清原さん、秋山(幸二)さん、石毛(宏典)さんとか、ホント大好きで、あの当時の西武のメンバーは全部言えるくらいだったんでね」。プロでは阪神一筋となる狩野氏だが、西武との“出会い”が野球熱を高めたのは間違いない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)