屈辱の初戦敗退→新監督は金のネックレス…変えられた野球観、元阪神捕手が受けた衝撃

元阪神・狩野恵輔氏、甲子園V腕・正田樹に完敗「なんだこれ」
険しい戦いが続いた。2000年の阪神ドラフト3位捕手の狩野恵輔氏(野球評論家)だが、群馬県立前橋工時代にプロから注目されたのは高校3年のドラフトイヤーになってからだった。それまでは多くの挫折を味わった。1998年の1年秋はリードの弱点を指摘され、1999年の2年春は、のちの甲子園優勝左腕に手も足も出ず、2年夏は屈辱の初戦敗退……。「打ちのめされた感じでした。ムチャクチャ、悔しかったです」と試練の日々を思い起こした。
前橋工で狩野氏は1年秋から捕手になったが、秋の群馬大会は準々決勝で高崎商に0-2で敗れた。「その時の相手コメントが2ボール1ストライク、昔でいうワンツーで(前橋工の)キャッチャーはスライダーが多かったって新聞に書かれたんです。僕が完全に読まれていたんです。ウワーッ、自分のせいで負けたんだって思って……。高崎商は(群馬3位で)関東大会に行って、甲子園にも出たんです。だから余計、悔しくて……」。
苦しい時期だった。「それからひと冬を越えても、いろいろ迷っていました。バッティングもフワフワしてあまり打てないし、守備も何かイマイチだし……。野村(克也)さんの本を読んだりしました。キャッチャーってそんなポジションなんだってすごい勉強した。すごい詰め込んでいましたけど……」。2年春の群馬大会では「バッティングが絶不調でした」という。「全く打てなくなった。たぶん、この大会で僕、2安打くらいしかしていないですよ」。
春の群馬大会で前橋工は準決勝で桐生第一に1-6で敗戦。相手エースは、その年の夏の甲子園優勝左腕となる正田樹投手(現ヤクルト2軍投手コーチ、元日本ハム、阪神など)だった。「すげぇピッチャーだと思いました。僕は2三振くらいした。もうカーブが、あっちの方から曲がってくるみたいな。なんだこれって思いました」。桐生第一は打線も強力。「みんなデカいしね、上には上がいるな、みたいな」。
このままでは夏も無理。「こんな人たちに勝たなきゃいけないんだから、頑張らなきゃって思ったんですけどね」。だが、2年夏はさらに最悪の結果が待っていた。群馬大会1回戦負け。前橋育英に1-2だった。「当時の前橋育英は全然強くなかったんですよ。先輩たちも『余裕だ』なんて言っていたんです。そしたら、負けちゃって」。野球の名門・前橋工が夏の群馬大会初戦で敗れたのは1988年以来のことだった。
関東大会出場で受けた衝撃「もうプロみたいだった」
「新チームになると同時に監督も交代したんですよ」。1996、1997年と2年連続で夏の甲子園ベスト4に導いた名将・矢端都雄監督から前橋工OBの貫井雅人監督にバトンタッチとなった。狩野氏は「(初戦負けの)責任は僕らにもあるのに」とつらい気持ちにもなったが、懸命に切り替えた。「貫井監督は東北福祉大で(元中日、阪神の)矢野(燿大)さんや(元広島、阪神の)金本(知憲)さんと同い年。急に若い監督になったなって思いましたけどね」。
狩野氏はキャプテンになった。「貫井監督は金のネックレスをしているし、メッチャ怖いかなって思ったんですけど、メチャクチャ面白い監督で。どんどん走れ、どんどんエンドランをかける、どんどん仕掛けをする監督でした。僕らの野球もちょっと変わったなみたいなところはありましたね」。新体制になって臨んだ1999年秋の群馬大会は決勝で一場靖弘投手(元楽天、ヤクルト)がエースの桐生第一に敗れたが、関東大会に進出した。だが「ここでも衝撃を受けた」と話す。
「千葉で行われたんですけど、入場行進が終わって、1回戦の東海大相模(神奈川)対春日部共栄(埼玉)を見て、なんだこいつらって思いました。もうプロみたいだったんですよ。春日部共栄のエースはすごいって評判だった中里(篤史、元中日、巨人)でね。そこにまた東海大相模が勝つんですよ。見ていて興奮しました。こんなやつらと俺らはやるんだなって。よく覚えています。関東大会エグッみたいな」
前橋工は1回戦で埼玉栄に延長11回5-6でサヨナラ負けして春の選抜出場の夢を絶たれた。6回表終了時点は5-2とリードしながら終盤に追いつかれての敗戦だった。「セカンドのメッチャ上手いやつが、メチャクチャ緊張してエラーを3つくらいして負けたんですけどね。でも、それよりも東海大相模対春日部共栄で受けた衝撃の方が印象に残っていますよ」。さらに上がいた。また打ちのめされたことで、狩野氏はさらなるレベルアップを誓ったそうだ。
「翌年(2000年)の選抜で東海大相模が優勝したんです。僕らが見た、あのチームが世代最強。あれが、僕らが目指すところなんだと思いました」。狩野氏は3年春から本塁打を急に量産し始めて、プロ注目選手になっていく。「そこから僕は確変モードになったんです」。それは1年秋から2年秋まで続いた“挫折期間”があってのこと。積み重なった悔しい思いをバネにしての“覚醒”だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)