野球人生を支える「5分間の壁当て」 朝7時半出社の会社員が磨き続ける“職人魂”

水沢駒形野球倶楽部でプレーする阿世知暢投手【写真:佐々木亨】
水沢駒形野球倶楽部でプレーする阿世知暢投手【写真:佐々木亨】

水沢駒形野球倶楽部・阿世知暢(あぜち・とおる)投手の物語

 100年の歴史を背景に「今」を生きる――水沢駒形の35歳右腕・阿世知暢、禅の教えを胸に社会人野球で輝き続ける

 100年以上の歴史を誇る水沢駒形野球倶楽部は、岩手県奥州市を拠点として日本野球連盟に加盟する社会人野球のクラブチームだ。エース格として奮闘中の入団4年目を迎えた阿世知暢(あぜち・とおる)投手は、5月23日に行なわれた第96回都市対抗野球第一次予選岩手県大会でも、その実力を誇示。同じ岩手で企業チームであるトヨタ自動車東日本(金ケ崎)で、かつてエースとして君臨した右腕は、「今」を大切に野球と向き合い続けるのだ。

 禅の言葉で「前後際断(ぜんごさいだん)」がある。沢庵禅師という江戸時代の和尚の言葉だというが、過去と未来を断ち切り、「今」に生きることを意味する。要するに、昔のことを引きずっていても何も変わらないし、未来のことばかりを考えていても取り越し苦労。だから、今その瞬間を集中して生きよという教えだ。かつて阪神などでプレーして、現役時代に目の前の1球に全力を注いで活躍した下柳剛投手が、その言葉をグラブに刺繍しているのを知った阿世知は、今でも「前後際断」を心に刻み続けている。

「26歳ぐらいから僕もグラブに刺繍して、今でも大事にしている言葉です。とにかく『今』を一生懸命にやることが大事かな、と。過去や未来を考えると、今が薄れてしまう」

 神奈川大を経て入社したトヨタ自動車東日本では10年間の現役生活を送った。2021年シーズン限りで引退。その後は社業に専念している。工場管理室で働く阿世知は、午前7時30分には出社するのだという。

「夕方に仕事を終えて自宅に帰ったら子どもと遊んだりしていますね。その中で、野球の練習時間を見い出せるとしたら、睡眠時間を削った朝だけになっちゃいますね」

 出社前の5分間。社業の傍らで水沢駒形野球倶楽部でプレーする阿世知は、わずかな時間で壁当てを繰り返す。趣味は「子どもと遊ぶこと。あとは、筋トレとストレッチぐらい」と笑う阿世知は、ウエイトトレーニングも続けているというが、平日に本格的な野球の練習はできていない。「5分間の壁当て」で、指先の感覚だけは磨き続けている。

「好きな野球」をハングリーなクラブチームで続ける

 トヨタ自動車東日本で現役を終えた時は、「野球は辞めよう」と思った。「でも、だんだんと筋肉が細くなっていくのがわかって、トレーニングだけは始めた」ことがきっかけで、またボールを握ってみたいという思いに駆られた。いくつかのクラブチームから誘いを受ける中で、水沢駒形野球倶楽部を選んだ。35歳の阿世知は、自らの現在地をこう語る。

「トヨタ自動車東日本の野球部は、もちろん応援しています。そういう中、水沢駒形から必要とされたので、今を一生懸命に、自身の野球も続けています。ヒリヒリとした野球は、なかなかできないですからね」

 入団2年目の2023年、水沢駒形野球倶楽部は久しぶりに全日本クラブ野球選手権大会に出場した。本戦出場を決めた瞬間、チームメートの目から涙がこぼれた。その光景に触れ、阿世知はさらに「野球のスイッチを押してもらった」と振り返る。

「クラブチームの選手たちはハングリーなんです。辞めたいと思えば、いつでも辞められる環境の中で、野球を真剣にやっている。みんな、野球が好きなんだなあと思います」

 企業チームでエースとして投げていた「過去」の自分と決別した瞬間でもあった。「今を生きよう」。そう改めて心に誓った。阿世知は言うのだ。

「それぞれの企業で働き、それぞれに家族もいる。その中で一生懸命に野球をやるのがクラブチームのスタイル。僕も、まだまだ頑張ります。トヨタ自動車東日本の社員の方々も、応援してくれるんです。そういう方々にも、野球を通じて喜んでもらえたら嬉しいですね」

 企業人にして野球人の阿世知は、やはり「今」を精一杯に駆け抜けている。

○著者プロフィール 佐々木亨(ささき・とおる)
岩手県出身。雑誌編集者、フリーライターを経て2024年Full-Countを運営するCreative2に所属。著書に「道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔」(扶桑社文庫)などがある。社会人野球をファンと一緒に盛り上げていくため「stand.fm」やnoteで社会人野球の情報を中心に発信中。

(佐々木亨 / Toru Sasaki)

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