大ファンの巨人が入札も「行きたくはなかった」 元最多勝右腕が「第1希望」だった球団

元ヤクルト・川崎憲次郎氏【写真:町田利衣】
元ヤクルト・川崎憲次郎氏【写真:町田利衣】

川崎憲次郎氏は1988年ドラフトで巨人とヤクルトが抽選の末にヤクルトへ

 1998年に17勝を挙げ最多勝に輝いた川崎憲次郎氏は、1988年ドラフト1位で巨人とヤクルトの抽選の末、ヤクルトに入団した。物心ついたときから大の巨人ファンで、自室中に原辰徳氏のポスターを貼り、写真集を持っていたほど。それなのに巨人には「行きたくはなかった」という。意中の球団に入り、後に“巨人キラー”と呼ばれることになる川崎氏の野球人生をたどる。

 野村謙二郎氏や高橋直樹氏らプロ野球選手が多く誕生していた大分県佐伯市出身。野球好きの街で、中学生時代に完全試合2回、ノーヒットノーラン6回とその名が知られた存在だった。高校は隣町の強豪・津久見高へ。高校3年時には甲子園大会に出場して「No.1投手」と呼ばれるほどになった。

 進路はプロ一本。1989年から九州に本拠地を移したダイエーや広島は熱心に足を運び視察してくれていた。12球団から挨拶は来ていたものの、前年のドラフトで古田敦也氏がまさかの指名漏れとなったこともあり「ドラフトの日までプロに入れるかわからないと思っていた」と疑心暗鬼だった。当日、教室で待機していると野球部長に呼ばれて「ヤクルトに決まりました」と伝えられた。「小さい頃からの夢が叶った。ホッとしたし、うれしかったですね」と川崎氏。当時、人口約5万人の市から、この年4人のプロ野球選手が誕生する快挙だった。

 大好きな巨人も入札してくれていた。しかし「ファンではあったけど、あの投手陣、3本柱(槙原寛己氏、斎藤雅樹氏、桑田真澄氏)と外国人の中には入り込めないから、行ったところで出る幕はないなと。プロに入ったらすぐ出たかったから、ヤクルトが第1希望。意中の球団に引いてもらって、結果よかったです。正解でした」。高校生ながら冷静に、戦況を見つめていた。

背番号17提示に「荷が重すぎるからいらないですって言ったんです」

 テレビで流れていた野球中継は巨人戦ばかりだった時代。ヤクルトに対しては「有名どころしかわからないけど、明るそうなチームで雰囲気がいいなって」と、“相手”としての知識くらいしかなかった。それでも提示された背番号「17」の重みはわかった。通算191勝のレジェンド・松岡弘氏が1985年に現役を引退して以降、空き番号となっていたのだ。

「3年空いてすぐ俺ってちょっと荷が重すぎるから『いらないです。デカい番号でいいです』って言ったんです。でも入団会見に行ったら、17番のユニホームができあがっていた。『うわー重てえな』って。俺が背負う番号じゃないと思って、本当に気が引けました。今では愛着がある番号ですけどね」

 契約金6000万円は全て親に預け、20歳のときに家族のために地元に家を建てた。大好きな野球を最高のレベルでできる――。順調に歩んできた右腕は自信を持って上京したが、1年目のキャンプで「俺が来るところじゃなかった」と衝撃を受けることになる。

(町田利衣 / Rie Machida)

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