点滴を打って日本S…続いた微熱と体調不良 名将からまさかの“指名”「俺ですか!?」

1993年の日本シリーズ第7戦に登板した川崎憲次郎氏【写真提供:産経新聞社】
1993年の日本シリーズ第7戦に登板した川崎憲次郎氏【写真提供:産経新聞社】

川崎憲次郎氏は5年目の1993年、日本Sで2試合に先発してMVPに輝いた

 ヤクルトで通算88勝を挙げた川崎憲次郎氏は、プロ4年目だった1993年にチームを15年ぶり2度目の日本一に導き、日本シリーズMVPに輝いた。前年は怪我により1軍登板なしに終わったが、見事に復活。頂点を決める初の大舞台では2戦2勝も、実は微熱が続き、点滴を打ってから球場に通うような日々だった。

「肘が痛いまま投げていて、いつ飛んでもおかしくない。不安の方が大きかった」というプロ5年目の1993年。シーズンで10勝を挙げて復活を遂げたが、1991年の15完投から5完投に減り、同191回2/3イニングから139回2/3イニングに減少。「ベンチも気を遣ってくれていた」と振り返る。

 前年はチームが14年ぶりに優勝を果たして日本シリーズに出場したが、自身は登板を果たせなかった。しかし、ヤクルトは1993年にリーグ連覇を果たすと、川崎氏は日本シリーズ第4戦のマウンドを託された。「普通なら経験がある投手が行くでしょう。ノムさん(野村克也監督)の賭けだったと思う。夢の舞台ですから、『第4戦で』と言われたときはめちゃくちゃうれしかったですね」。期待に応え、8回無失点の快投で白星を手にした。

 日本シリーズは最大7試合。普通なら、4戦目で投げた川崎氏の登板はもうないと考えるだろう。「その時点で3勝1敗でリードしていたし、スクランブルだけは用意しておくのは頭にあったけど、投げることはないだろうなと……」。ところが、第6戦が雨天中止となり、3勝3敗で最終戦まできた。中4日で登板可能となった川崎氏は、第7戦の先発を言い渡された。

元ヤクルト・川崎憲次郎氏【写真:町田利衣】
元ヤクルト・川崎憲次郎氏【写真:町田利衣】

「微熱とだるさがずっと続いていて、酒も節制していた」はずが…

「『俺ですか!?』って。勝ったからよかったけど、ものすごいプレッシャーでした。キャンプから、ことあるごとにノムさんは『今年は日本一』と言っていて、その場面が来たわけですから。今思えば、先発した2試合ともブルペンからめちゃくちゃ調子がよかった。ブルペンがいいと試合でボコボコにされることが多いけど、試合でもいいという奇跡が起きた。あんなのプロ16年間の中でもあの2試合だけかな」

 7回2失点でリードを持って抑えの高津臣吾につなぎ、ついに栄冠を手にした。投手では珍しかったMVPにも選ばれた。しかし「実は、日本シリーズは点滴を打ちながらやっていたんですよ。37度から38度くらいの微熱とだるさがずっと続いていて、酒も節制していた」と衝撃の事実を明かしつつ、「優勝してビールかけをしたら翌日治っていた。知恵熱だったのかな(笑)」と“オチ”まで完璧だった。

 夢のようなシーズンも、翌年以降は徐々に白星が減り、8年目の1996年は5試合に登板も未勝利に終わった。「変わらないといけない」と、ついに代名詞にもなったシュートの習得に動き出す。

(町田利衣 / Rie Machida)

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