名門から推薦も…突然の猛反対「行かない方がいい」 埋められた外堀、ロッテドラ1の“未練”

元ロッテ・服部泰卓氏、小5から徳島で生活…池田高に憧れ
2007年の大学・社会人ドラフト1巡目でロッテに入団した服部泰卓氏は、貴重な中継ぎ左腕として2013年に51試合登板するなど8年間のプロ野球生活を送った。2015年の現役引退後は球界を離れ、サラリーマン生活も経験。現在は独立して自身の現役時代の背番号「20」を社名にした会社を立ち上げ、講演活動やセミナー開催などさまざまな事業を行っている。現役引退までは野球一色の人生。小1からプレーを開始し、プロ野球選手への夢を追い続ける中、高校までは主に野球王国の徳島で腕を磨いた。
幼少期の服部氏は、父・勝さんの転勤に伴い各地を転々としていたという。大阪で生まれ、ほどなくして高知へ。再び大阪に戻ると野球を始めた小1からの2年間は埼玉、小3からの2年間は兵庫で過ごした。そして小5から母・恵子さんの実家がある徳島へ。病気がちな母の体調を考慮して、そこから定住することになった。
生まれた時から左利き。食事の際の箸やスプーン、字を書く時の鉛筆などは祖母に“矯正”されて右で対応しているが、野球に関していえば少ない左利きは有利な部分でもあった。「特にピッチャーは希少価値があるというか、少ないですから。ただ(一塁以外の)内野を守れないのは寂しいですよね。野球の楽しさを半分くらい味わえていない感じです」。そう言うものの、小4時には俊敏な動きを評価されて二塁を守ったこともあったそうだ。
徳島の江原南小では軟式の少年野球チームに所属。6年時に初めて投手を経験した。「『ピッチャーやりたい人?』って聞かれて手を挙げました。それまでやるチャンスがなくて、『やりたいな、格好いいな、やっぱり主役だな』って思っていたんです。でもストライクが入らなかったんです。そんなレベルでした」。江原中に進むと軟式野球部に入部。「1学年上の先輩だけで9人そろっていなかったと思う。大学まではレギュラー争いを経験しませんでした」。1年秋から試合に出場し、2年秋からはエースに。美馬郡(現・美馬市)の大会では優勝も経験した。
県大会では実績を残せなかったものの、少しずつ実力がつき自信が芽生える。迎えた3年の秋、どうしても譲れない進路の希望があった。「ずっと池田高校に行きたかったんですよ。行きたくて、しょうがなかった。小学4、5年ぐらいの時に甲子園に池田高校が出ていてシンプルな『IKEDA』って感じでオールドスタイルのようなユニホームで、何試合か勝ったのをテレビで見てたんです。『うわぁ、格好いいな。僕もこのユニホームを着て甲子園に出たいな』って憧れがありました」。
蔦文也監督(故人)に鍛えられた池田高は1982年の夏の甲子園を制するなど3度の全国制覇を誇る屈指の強豪。服部氏が小4だった1993年夏の甲子園に2年連続で出場していた池田高はベスト8に進出した。その時の印象が強かったそうで「そこからずっと『池田高校に行って、甲子園に出たい』という夢を持っていましたね」。江原中での野球については「目標って個人的にはなかった。もちろん目の前の試合は勝ちたいんですけど『池田高校から推薦をもらうために中学野球を頑張る』っていうのがモチベーションだったんです」と強調した。
憧れの池田高から推薦枠「行きたい」も…川島高に進学
「それで、池田からは推薦を頂いたんです。僕も行きたい。ずっと行きたかったから迷うこともなかったんですけど、当時の野球部の監督に『行かない方がいい』と言われたんです」。蔦監督は既に退任し池田高を取り巻く環境に変化が生じていたようだが、一途な思いをさえぎられる助言に「でも行きたいんです」と反発した。監督からは「お前が憧れているような池田高校は一昔前で、もう蔦監督もいないし、昔からの体育会系の上下関係が根強く残っているんだ」と言われたそうだ。
説得はさらに続き「教え子がそういうところに行って、野球に集中できないとか、続けられないというのは残念だから、他に誘いがある川島高校に行かないか」と川島高への進学を勧められた。しかし「嫌です」と拒否。「ずっと憧れているんですよ。『絶対に池田高校に行きたい』『いや、やめとけ』。どっちも譲らなかった。近くの郡の選手と仲良くなって、みんな池田高校に行くって話になって『俺も行きたい』って。すごく楽しみにしてたんですよ。この地域で有望な選手が集まって、甲子園に行ったら面白いなぁって思ってました」。
父も当初は「『池田に行けばいいじゃないか』って感じだった」という。ところが……。「最終的になぜか父親が『もう川島に行くか』ってなったんですよ。僕は『え~っ!?』みたいになって。『正直言ったら池田高校は寮に入ることになる。ちょっと心配な部分もあるし、川島高校なら家から通えるから』みたいなことを言われました」。
江原中の野球部監督からも「池田高校の1選手というよりも“川島高校の服部ここにあり”という感じで、お前が甲子園に連れていけ。川島はこれからのチーム。その歴史を築く、そういう青写真を描いて、川島に行かへんか」と諭すように話があったそうだ。「本当か嘘かは分からないですけど、池田高校の1学年上の選手はしごきとか厳しさに耐えきれずに現状6人しかいないという話もされました」。父と野球部監督は飲み仲間でもあり、2人で話し合うなど徐々に外堀を埋められていたのかもしれない。
「『やまびこ打線』って有名じゃないですか。そういう名前があるところで野球をするのに憧れましたよ」。今でも池田高への思いを口にする服部氏だが、最終的に川島高に進学したのが1998年の春。入学直後から試合にも出場し、後に巨人に入団する1学年上の阿南工高・條辺剛投手との対戦で大きな衝撃を受け、プロを強く意識することになっていく。
(尾辻剛 / Go Otsuji)

