骨折、極度の不振…苦難まみれの甲子園「何も覚えていない」 中日ドラ1に残る“後悔”

プロ注目選手が多いなか、新チームで掴んだ「1番・遊撃」のレギュラー
元中日内野手で名球会メンバーでもある荒木雅博氏(野球評論家)は熊本県立熊本工時代に2年、3年時に春の選抜出場を果たし、甲子園を経験した。2度目の出場となった1995年春は優勝候補筆頭のPL学園の対抗馬として全国制覇も意識して臨んだ。しかし、大会前の練習試合で骨折アクシデント。勝ち上がった2回戦に強行出場したものの、結果を残せず、チームも敗退となった。実は、この時の対戦相手に嫌なイメージを持っていたという。
荒木氏は熊本工2年春の1994年にレギュラー二塁手として選抜に出場したが、1回戦・姫路工に2-6で敗戦。自身も無安打で「気がついたら終わっていた。何も覚えていない」。その後。不調に陥り、同年夏はレギュラーから外れた。さらにチームは45年ぶりの夏の熊本大会初戦敗退(熊本市商に9-10)の屈辱にまみれた。「1個上の先輩たちの時に1回戦で負けましたからね。もう1回、仕切り直しでいかないと、という気持ちはありました」。
元来が練習の虫だ。継続練習の積み重ねで不調を脱し、新チームでは1番遊撃のレギュラーの座をつかんだ。熊本工ナイン全体のレベルも上がった。エース・松本輝投手(1995年ダイエードラフト2位)と3番打者の田中雅興外野手(1995年オリックスドラフト5位)は後にプロ入りした逸材。他にも1994年AAAアジア野球選手権大会に松本とともに日本代表に選出された佐崎圭介外野手、現在も競輪選手として活躍する合志正臣外野手ら粒揃いだった。
「みんないい仕事をしましたからね」と荒木氏は懐かしそうに話したが、実際、この時の熊本工は強かった。1994年秋の熊本大会優勝、さらに九州大会も制覇して1995年春の選抜出場を確定させた。城北との熊本同士の対戦となった九州大会決勝は11-7で勝利。1番遊撃の荒木氏は4打数4安打の大暴れだった。「負ける気がしなかった。自分たちの代で甲子園に行きたいという気持ちがあったし、それも断トツでいかないという気持ちもありました」。
ギブスを外して試合に臨むも無念の敗退
まさに伝統校のチーム一丸での巻き返しでもあった。当然、評価も高かった。1995年春の選抜における優勝候補筆頭は近畿大会覇者で福留孝介内野手を擁するPL学園だったが、熊本工もその一角にあげられていた。1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の影響で一時は開催も危ぶまれた選抜大会は、関係者の尽力もあって3月25日に開幕。「周りの建物とかは壊れていたし、よくできたなぁって感じでしたね」としみじみと話した。だが、結果は……。
熊本工が4-1で勝利した郡山(奈良)との1回戦に荒木氏は怪我のため出場できなかった。「3月に練習試合が解禁になって、すぐだったと思います」。帰塁した際に右手甲骨折のアクシデントに見舞われていた。2回戦の日南学園戦には「1回戦まではギプスをしていたんですけど、それを外して無理矢理出ました。自分で『行きます』と言ってね。痛かったですけどね」と強行出場したが、4打数無安打、試合も2-6で敗れた。
「あの大会、1回戦でPLが(銚子商に)負けたんですよね。福留たちがね。なので“来たな、俺ら”って話をしていたら、こっちも(日南学園に)負けるというね……」と荒木氏は話して、こう付け加えた。「日南学園にはちょっと嫌なイメージがあったんです。それまで僕らは新チームになってから練習試合も含めて1敗か2敗かしかしていなかったんですけど、その相手が確か日南学園だったんですよ」。
1994年秋の九州大会では熊本工が準決勝で日南学園を5-3で下したが「あの時もやっとの思いで勝った感じ。九州大会もその試合だけ苦労したし、何かあそこは嫌だなって思っていたら負けたんです。いいピッチャー(坂元鋼史投手)でしたしね」。怪我を押しての出場も勝利につながらなかった。「センターライナーを打ったのは覚えていますけど……」。荒木氏は2年春と3年春に2年連続で選抜に出たが、いずれも無安打に終わった。
「悔しかったですね。でも、あの時は、まぁ夏があるからいいかが最終的な落としどころでしたけどね」。しかしながら、その最後の夏、熊本工は熊本大会準決勝で九州学院に敗れ、“聖地”に戻れなかった。荒木氏は「あの頃は、甲子園は夏に行かないと、って言っていましたけど、今は春に2回も出といてよかったと思っていますよ」と笑いつつ「甲子園を楽しむことはできなかったですけどね」と振り返った。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)