中日から1位指名「拷問かよ」 12球団OKも…18歳を襲った“戸惑い”「呼んでくれるなよ」

元中日・荒木雅博氏【写真:木村竜也】
元中日・荒木雅博氏【写真:木村竜也】

最後の夏、熊本大会準決勝敗退に「しょうがない」

 現役時代に俊足、巧打、好守で知られた荒木雅博氏(野球評論家)は1995年ドラフト1位で熊本県立熊本工から中日入りした。超目玉だったPL学園・福留孝介内野手、さらに東海大相模・原俊介捕手の“1位クジ”に連敗した中日の外れの外れ1位だったが「想定外でした」と驚き、戸惑ったという。「1位なんかで呼んでくれるなよ、何で……。拷問かよって思いました」と当時の偽らざる思いを明かした。

 1995年、熊本工は2年連続で春のセンバツに出場した。1994年の九州大会覇者で優勝候補の一角とも評されていたが、2回戦で日南学園に2-6で敗れた。1番打者で遊撃手だった荒木氏は大会前の練習試合で右手甲を骨折。4-1で勝った郡山との1回戦には出場できなかったが、2回戦はギプスを外して気迫の強行出場。だが、それも勝利にはつながらなかった。さらには熊工ナイン全員がもう一度、甲子園に、の思いで臨んだ最後の夏も熊本大会準決勝敗退で終わった。

 九州学院のエース・今村文昭投手(1995年オリックスドラフト1位)に熊工打線が封じられ、1-3での敗戦だった。「このピッチャーを打たないと甲子園に行けないって話はみんなとしていた。その日の今村の調子次第ではやばいとは思っていたんですけど……。(調子が)よかったんですよねぇ。僕も確か4タコだったと思います」。

 負けた瞬間は「多少ウルッとはしました。周りが泣いていたのでね。でも、しょうがないですもんね。こんなふうに言うと、すごく冷たい人間みたいに聞こえるかもしれないけど、負けちゃったぁ、何しようかな、また暇だなって思いました」と話す。進路に関しては「プロに行けるんだったら、プロ。大学には行きたくないなと思っていました。だってあの頃って(指導、上下関係など)激しいじゃないですか。そんなことまでして野球をやりたくないと思っていたのでね」。

驚いた中日からの1位指名「4位くらいにしてほしかった」

 社会人野球からの誘いもあったが、あくまでプロが第1希望。「夏が終わってから(熊本工監督の)山口(俊介)先生からプロの話があるのはちょこちょこ聞いていましたしね」。12球団OK。「行きたい球団は別になかったです。あまり目立たないところがいいと思っていたかな」。ほとんどの球団が興味を示していたなかで、自身の予想では横浜を有力視していたそうだ。「食事もさせてもらったし(事前に)4位とかで指名すると言われていたのでね」。

 食事はしていなかったそうだが「中日もいいなとは思っていた」と言う。だが、ドラフト1位は「想定外でした」と苦笑する。ドラフト当日は学校で、エースの松本輝投手(ダイエー2位)とともに、指名を待っていたが、自分が先に呼ばれるとは思ってもいなかった。「(ドラフト中継を)テレビで見ていましたけど。まだ(指名は)ないと思っていたから、ボケっとしていましたもんね」。それだけに驚き、戸惑った中日の1位指名だった。

 中日はPL学園・福留を1位指名したが、巨人、ヤクルト、近鉄、日本ハム、ロッテ、オリックスとの7球団競合となり、抽選負け(交渉権は近鉄が獲得=入団拒否)。外れ1位でも東海大相模・原で巨人と競合になり引き当てられなかった。そして、外れの外れ1位で荒木氏が指名されたわけだ。「(連敗に怒り心頭の中日)星野(仙一)監督が『誰でもいいから獲れ』って言ったと聞いています。その『誰でもいいから』の『誰でも』が僕です」。

 笑顔で振り返った荒木氏だが、当時はとにかく衝撃を受けたという。「4位くらいにしてほしかった。5位でもいいなと思っていた。どこの球団も指名するなら、そんな感じの話でしたしね。だから何で1位なんだろうと思いましたよ。1位とかで呼んでくれるなよ、1位とか無理だって、拷問かよってね。活躍できるかも分からない。足だけは通用するかもしれないけど、それ以外は何もねーぞ、って最初に思ったのは覚えています」。

 とても喜べる状況ではなかったドラフト1位。「プロに入ってからも『お前がドラフト1位か』って、よく言われましたしね」というが、そんな“誰でもいい”状況からコツコツ練習を積み重ねて、ついにはNPB通算2045安打を放つなど、走攻守にわたっての名選手になっていったのだから……。運命のドラフトも荒木氏の野球人生においては、インパクト十分の忘れられない“想定外の思い出”となっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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