原因不明のスランプで泥沼「何がどうなったのか」 完封後に8連敗…ドラ1が手放した“居場所”

3安打完封で復調確信も…太田氏が陥った“悪夢”「だんだん焦り出した」
突然、勝てなくなった。“元祖甲子園のアイドル”で元近鉄投手の太田幸司氏(野球評論家)は、プロ5年目(1974年)から8年目(1977年)の4シーズンで3度、2桁勝利をマークするなどバファローズの主力投手として実績を重ねていった。しかし9年目(1978年)は一転してわずか1勝に終わった。原因不明の不調だったという。「何か、よくわからない年だったんですよねぇ」と苦笑しながら話した。
1969年夏の甲子園、決勝の松山商戦での延長18回“0-0引き分け”再試合の熱投などで、女性ファンの人気を集め「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした。一躍“国民的スター”となった太田氏は、同年のドラフト1位で近鉄に入団。1年目の1970年から1軍でプレーした。いきなりCM撮影の仕事が入るなど、その人気はすさまじく、オールスターゲームには1年目から6年連続で出場し、そのうち5回がファン投票で選出された。
人気先行と言われながら、シュート、スライダーをマスターするなどして実力の方も年々アップ。5年目の1974年には初の2桁10勝を挙げ、6年目の1975年にはキャリアハイの12勝を記録して近鉄主力投手の座も確立させた。球宴連続出場がストップした7年目の1976年も9勝。8年目の1977年は前半に7勝を挙げて球宴に監督推薦で“復帰”して、最終的には再び2桁勝利到達の10勝14敗1セーブ。防御率はパ・リーグ10位の3.21だった。
「まぁまぁ、その辺の4年間くらいはコンスタントに、って感じだったんですけどね」。その“いい流れ”が急に変わったのが9年目の1978年だ。開幕2戦目の4月2日のクラウン戦(平和台)に先発して、5回2失点で敗戦投手。4月9日のロッテ戦(先発)は4失点完投負けで2敗目を喫した。連敗スタートも3登板目の4月14日の日本ハム戦(日生)では3安打完封で1勝目を挙げ、調子のリズムを取り戻したはずだったが、そこから逆におかしくなった。
「完封して“よっしゃ、いいよ”と思ったらね……。何がどうなったのかっていうのが分からないようなシーズンだったんですよね」。4登板目の4月20日の阪急戦で2回1/3、4失点でKOされて3敗目。そのまま泥沼の黒星地獄にハマり込んだ。先発しても早い回で打ち込まれるケースが目立ち、4月は1勝4敗、5月は0勝3敗。6月8日の日本ハム戦(後楽園)のリリーフ登板で黒星がつき、1勝8敗となったところで、2軍再調整となった。
肩、肘などに問題を抱えていたわけではない。「体調も悪くなかったし、今、振り返っても何だったのかって思いますよ」と不調原因も不明だった。「なんかそういう流れの年だったのか。まぁ、最初はそうでもなかったんだけど、あれだけ負けたら、そりゃあ、だんだん焦り出しましたもんね、ああ、勝たなきゃ、って。それまでずっと割と勝ってきていたから、余計にね。勝てるようになってからの大スランプだったんですよねぇ」。
10勝→1勝→7勝と復活も…“伝説”の日本シリーズは登板すらできず
その後、1、2軍を何度か往復したが、結局、白星を手に入れることができなかった。8月27日の南海戦(西京極)に先発して2回2/3、2失点で降板し、2軍落ちとなって、そのままシーズンを終えた。21登板(15先発)、1勝9敗、防御率5.40。前年(1977年)10勝からの急降下だった。安定感ある投球で首脳陣からもある程度の勝ち星を計算されていたなかでの絶不調だった。太田氏は首を傾げながら、こう話した。「あれは何か怪我の予兆だったんですかねぇ……」。
翌1979年、プロ10年目の太田氏は、そんな大スランプから脱出して7勝をマークする。「まぁ、あの年はローテーションの矢面に立って、バンバン投げていたわけではなくて、割とポツポツという感じかな」と言うが、終盤になって、完投、完封など調子を上げた。7勝のうち4勝は9月以降に挙げたものだ。「ちょっと帳尻を合わせるようにね(笑)。でも、“よっしゃ、これで行ける”というような雰囲気にはなったんですけどね……」。
当時のパ・リーグは前期、後期の2シーズン制で、1979年の近鉄は前期に優勝し、後期優勝の阪急とのプレーオフも3勝0敗で制して、球団創設以来、初のリーグ優勝を成し遂げた。日本シリーズは3勝4敗で広島に敗退。3勝3敗で迎えた第7戦(11月4日、大阪)で3-4の9回裏無死満塁の大チャンスを広島守護神・江夏豊投手に封じられて涙をのんだ。そのシーンは“江夏の21球”として語り継がれている。
だが、そんな広島との日本シリーズも、その前の阪急とのプレーオフにも太田氏は登板していない。「急に肩が……」。右肩痛発症の悪夢に襲われていたからだ。「あれが苦悩の始まりでしたね」。1978年の“謎の1勝シーズン”も、1979年プレーオフ前の“そこ”につながっていたのかと思えてくるほど、ここから厳しい戦いが待っていた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)