洗顔で気づいた右肩の“悲鳴”「もう駄目」 日本S直前の悲劇「いっぺんにプチーンと」

元近鉄・太田氏を襲った右肩痛「キャッチボールもできなかった」
どうしようもなかった。元近鉄主力投手の太田幸司氏(野球評論家)はプロ10年目の1979年に右肩痛を発症した。シーズン終盤に調子を上げ、10月9日の南海戦(大阪)で7勝目をマーク。前期優勝の近鉄と後期優勝の阪急が激突するプレーオフに向けて意気込んでいたところで“悪夢”に襲われた。「朝起きたら……」。青森・三沢高時代も、近鉄に入ってからも“ハードワーク”をこなしてきた右肩がついに悲鳴を上げたのだった。
無念のリタイアだった。“さぁ、これから”という時にまさかの事態に陥った。「プレーオフに向けての練習の朝でした。起きたら何か……。顔を洗おうと思ったら、もう“アレ”って感じでね」。右肩に異変を感じたという。「何も手に持っていなければ(肩は)全然回るんですけど、何か持ってクッと力を入れたらピーンとなって……。球場には行ったけど、キャッチボールもできなかった。何か負荷がかかるともう駄目でした」。
その前年(1978年)に太田氏は、原因不明の不調で1勝9敗と成績が大幅にダウン。節目となる10年目の1979年は、そこからの復活を目指してのシーズンだった。4月29日の阪急戦(西宮)と5月4日の阪急戦(日生)で2試合連続2失点完投勝利を挙げるなど、この時点では3勝0敗。だが、その後、調子を落とした。近鉄が前期優勝を成し遂げた中、太田氏の状態は後期に入っても、なかなか戻らず、6月からの3か月で0勝4敗と苦しんだ。
「もう以前のようにローテーションに入って、という感じではなく、谷間で先発したり、リリーフしたりでしたね」。チーム内での立場も変わったが、そこから意地を見せた。9月に入って巻き返した。9月1日の日本ハム戦(後楽園)に4安打完封で5月4日以来の4勝目。さらに中4日で9月6日のロッテ戦(日生)に先発すると3失点完投で5勝目をあげた。9月と10月の2か月は4勝0敗と結果を出した。
最終成績は31登板(20先発)で7勝4敗、防御率3.31。シーズン中盤に数字を伸ばせなかったものの、終盤は復活を感じさせる内容だった。太田氏も後期優勝の阪急とのプレーオフに向けて意気込んでいた。そんな時に右肩痛に襲われたわけだ。「シーズン最後の(10月9日の)南海戦に(先発して5回無失点投球で)勝って、7勝して“これでプレーオフも”って、なっていたんですけどね……」。大事な時期での戦線離脱だった。
広島と日本シリーズで対戦も、太田氏は治療に専念
三沢高時代は1967年の1年秋から3年の最後まで、公式戦はすべて一人で投げ切った。近鉄入団後も1軍に定着してからは中3日が当たり前の短い登板間隔で先発し、リリーフもこなしてきた。それがついに……。「地肩が高校時代からずっと強かったんでね。肩なんか、それまで痛めたこともなかったんですよ。でも、どこかで、やっぱりジワジワときていたんでしょうねぇ。それがいっぺんにプチーンと……」と話した。
近鉄は阪急とのプレーオフを3勝0敗で突破、広島との日本シリーズは激闘の末に3勝4敗で終わったが、太田氏は右肩治療に専念するしかなかった。「治療といっても、昔は鍼を打つとか、そんな感じでしたからね。そのオフはずっとそういう治療をして『まあまあ、年を越したら大丈夫やろ』とか言っていたら、ちょっとはよくなったんですよ。そしたら放るでしょ。でも、ある程度は放れるようになっているんだけど、ちょっと投げすぎたら、すぐにまたワーっとなって……」。
太田氏のプロ野球人生は、11年目の1980年以降、この右肩痛との“戦い”になっていく。「今日はいい球がいっているなと思ったら、次の日になったら“あれ? またちょっと引っかかるな”とか……。毎日、朝起きてみないと、どうなのか分からない感じにもなりだして。朝起きるのも不安みたいな、そんな日が続いたんです」。
投げるのが当たり前だったし、投げさせてもらえるのが喜びでもあったのだから、投げたくても、投げられないのはあまりにも辛すぎた。もちろん、もう一度輝きを取り戻そうと必死になったが、なかなかうまくいかなかった。すべては1979年10月の右肩痛発症から始まった。「極端にガクンという感じですからねぇ。ホント、あの時に肩を痛めていなかったら、って思いますよ」と、太田氏は悔しそうにつぶやいた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)