まさか覚えていた下っ端記者の名前「おお、よく来たね」 初対面から3か月…“常識”覆ったロッカーでの衝撃|私だけが知っている松井秀喜#2
アスレチックス時代の松井秀喜【写真:アフロ】私だけが知っている松井秀喜#2…キャリアの終章に寄り添い続けた記憶
Full-Count+の新連載「私だけが知っている松井秀喜」は、当時の担当記者たちが「未発表の記憶」を紐解くノンフィクション・コラム。今回の筆者は、2011年から2012年にかけて、現役晩年の姿を追いかけた清水友博。全盛期の華やかなホームランではなく、キャリアの終章に寄り添い続けた「下っ端番記者」だからこそ見えた松井秀喜の素顔——。グラウンドの片隅での張り込み、初めて踏んだアメリカの土、そしてあの忘れられない一言。(敬称略)
「おお、清水。よく来たね」
その一言が、今も耳に残っている。
2011年春、筆者は初めて取材で米国の土を踏んだ。目的地はオークランド。松井秀喜が当時所属していたアスレチックスの本拠地だった。入国審査でしどろもどろになり、ターミナルを間違えて右往左往し、レンタカーを借りるのも四苦八苦……。初めて経験する米国での運転にも大苦戦しながら、やっとの思いでスタジアムに辿り着いた。
日本では入ることの出来ないチームのクラブハウス(ロッカールーム)の扉を開ける前からすでに緊張で手のひらが汗ばんでいた。「まずは松井さんに顔と名前を覚えてもらわなければ」。それが当時の最大の課題だった――。
筆者が松井番になったのは2011年。ワールドシリーズMVPに輝き、ヤンキースを世界一に導いてから2年。全盛期の圧倒的な打棒こそ陰りが見え始めていたとはいえ、日本が誇る超大物スラッガーであることに変わりはなかった。
当然、担当記者の数も多く、各社の精鋭たちがひしめき合っていた。
そんな中に放り込まれた筆者は、青春時代はサッカーに明け暮れた野球素人の若造。「松井番」としては、まさに下っ端中の下っ端である。ライバル記者たちが長年かけて築いてきた関係に、今さら割り込む余地などあるのだろうか。そんな不安も抱えながら、松井番生活は始まった。
名刺を渡したところで顔と名前を覚えてもらえないプロスポーツの世界
最初の仕事は、張り込みだった。松井はオフシーズンになると、都内のグラウンドで調整することで知られていた。ただ、いつ来るかは誰にも分からない。月に数回、ふらりと現れては黙々とバットを振り、終了後に取材に応じる。番記者の仕事とは、その瞬間を逃さないために、ひたすら待つことだった。
2010年オフ、NYでのパーティーに出席する松井秀喜【写真:アフロ】寒風が吹きつける1月のグラウンドで、松井が現れるのを何時間も待つ。しかも毎日。それが筆者の松井番としての原点だ。
ただ、1月の間に松井と顔を合わせられたのは、わずか2度だけだった。初対面の際に名刺を差し出し、「よろしくお願いします」と頭を下げると、松井は「よろしくね」と穏やかな笑顔で応じてくれた。それだけだった。そう、それだけだったが、その笑顔はどこか拍子抜けするほど自然で温かかった。
日本から持参した和菓子のお土産に「めちゃくちゃ美味しかったよ」
(清水友博 / Tomohiro Shimizu)


