試合前の突然の通告に涙「不要なのか」 理解した日米文化の違い…ロッテ監督時代にトレード続発のワケ|THE KEYWORD 井口資仁 #1

  • 佐藤直子 2026.04.07
  • MLB
インタビューに応じた井口資仁氏【写真:増田美咲】インタビューに応じた井口資仁氏【写真:増田美咲】

「一つのキーワード」をテーマに半生を紐解く新企画…井口資仁の『挑戦』第1回

「一つのキーワード」をテーマに、元メジャーリーガーたちに独占インタビューで迫るFull-Count+の新企画「THE KEYWORD」。初回は『挑戦』から野球人・井口資仁氏を紐解いていく。第1回は「メジャー挑戦の背景と異国への適応」に迫る。

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 1964年に村上雅則氏が日本人初のメジャーリーガーとしてデビューを飾ってから62年。今季は14選手がメジャー契約を勝ち取り、“世界最高峰”の舞台で勝負している。これまでも数多くのメジャーリーガーが誕生してきたが、日本人で初めてワールドシリーズ制覇を経験したのが、ホワイトソックス、フィリーズ、パドレスでプレーした井口資仁氏だ。

 ホワイトソックスでは移籍1年目に正二塁手となり、世界の頂点に立った。その後は怪我、フィリーズへのトレード、控え選手、パドレスでの戦力外、フィリーズへの復帰など多くの経験が積み重なり、日米通算21年の長いキャリアの中でも実に濃い4シーズンとなった。

「日本に帰ってきて、選手、監督とやった中で、ものすごく生きた4年間になりました」

 1997年にドラフト1位でダイエー(現ソフトバンク)に入団して以降、まずは1軍で結果を残すことに精一杯だったが、海の向こう=メジャーのことは常に頭の片隅にあった。青学大4年時にはアトランタ五輪に出場し、銀メダルを獲得。準決勝で戦った米国代表にはマーク・コッツェイ、ジェフ・ウィーバーら、後にメジャー入りして活躍した選手も多く、各国の猛者が集う“最高峰”が気になっていたのだ。

アトランタ五輪の準決勝・米国戦、本塁打を放った松中信彦を出迎える井口氏(右端)【写真:アフロ】アトランタ五輪の準決勝・米国戦、本塁打を放った松中信彦を出迎える井口氏(右端)【写真:アフロ】

「やっぱり少しでもレベルの高い舞台でプレーしたいっていう思いは、すべての野球選手が持っているものだと思うんですよね。世界最高峰のリーグでもあるし、日本で経験を積みながら『これでいける』と自信を持つこともできた。ただ、実際にチャレンジできるのは、ごく一部の選手。行けて良かったと思います」

 日本のプロ野球選手がメジャー移籍を目指す時、メディアでは当たり前のように「メジャー挑戦」という言葉が使われる。井口氏にとっても「移籍」ではなく「挑戦」だったのだろうか。

「当時はまだメジャーに行く選手の数が少なかったし、成功するのは本当にごくわずか。だから、今の選手よりも少しハードルは高かったかもしれません。そう考えると『挑戦』でしたね。

 何に対する挑戦だったか? う〜ん……色々あったとは思います。でも正直、当時はお金とかでは全然なくて、まずメジャーの舞台に立つこと、試合に出ることが挑戦だった。大学生からプロに入った時と同じくらいの『挑戦』。同じプロの野球だけど、当時はそれくらい差があった気がします。世界に挑戦する、そんな感じですよね」

「色々な経験をさせてもらった」MLB時代を振り返る井口氏【写真:増田美咲】「色々な経験をさせてもらった」MLB時代を振り返る井口氏【写真:増田美咲】

 20年以上の時を経て、今では「挑戦しない」という選択肢を取った未来は想像すらできない。「日本でプレーするという選択肢もあったとは思いますけど、やっぱりどこかで自分が挑戦しなかったことに対して、たぶん一生『なんであの時……』って悔いが残ったんじゃないかと」。悔いの残らない選択をしたい。強くそう思うきっかけがあったという。

「秋山(幸二)さんが引退した時、『メジャーに行きたかったな』って言ったことがきっかけですね。自分は悔いを残したくないな、と」

 類い稀なる身体能力とプレーで湧かせた現役時代、秋山氏は「メジャーに最も近い日本人選手」と評されていた。学生時代には憧れ、ダイエーではその凄さを間近に見た秋山氏の言葉が、井口氏の心に響いた。「だから、僕は現役を終えた時、やりきった感がありました。メジャーに挑戦し、色々な経験をさせてもらったので」。メジャー4年間で重ねた経験は、野球人・井口資仁に深みを与えるものとなった。

「MLBは練習時間が短い」は本当? 感じた日米の違い

 海を渡る際、心に決めたことがある。「米国は本当に色々な国や文化の人が集まる場所。まずはすべてを受け入れよう」。郷に入っては郷に従え。日本で生まれ育った自分の常識を、いったん取り外してみることにした。

「野球に関して言えば、今までとは違ったスタイルを楽しんでみようっていうのはありましたね」

 ダイエーでは主軸だったが、ホワイトソックスでは2番打者として「つなぐ打撃」に徹した。1年目は初対戦の投手が続く中、ビデオやスカウティングレポートを活用し、しっかり予習。攻略できないことがありつつも、悔しさ以上に「やっぱりすごい投手だったな」と真剣勝負する楽しさの方が勝っていた。

「日本のきっちりした文化の方が自分としては一番楽。ただ、イレギュラーで起こることを楽しんだり、ポジティブに捉えたりできれば、いいパフォーマンスが出せるんじゃないかと。そこはうまく対応できたんじゃないかと思いますね」

2005年、ホワイトソックスで初のスプリングトレーニングに臨む井口氏【写真:アフロ】2005年、ホワイトソックスで初のスプリングトレーニングに臨む井口氏【写真:アフロ】

 そんな井口氏でも当初は戸惑ってしまったというのが、すべてを自分で考えて決める自主性重視のスタイルだ。「やらされる練習がなく、自分でどうやるか、何をやるかを考える。最初はそこに苦労しました」と振り返る。スプリングトレーニングを例に挙げてみよう。よく「メジャーは練習時間が短い」と言われる。確かにチームとして練習メニューが用意されているのは午前中の3時間程度。昼過ぎには大半の選手が帰宅する。だが、実際は……。

「練習量が少ないと言われますが、自分次第で練習量は補える。早い選手は朝6時前から自分のルーティンワークに取り組むなど、選手はそれぞれ工夫しています。僕も最初はチームの集合時間少し前に到着するように行っていましたが、なるほど、全体練習が始まる前に自分のルーティンを終わらせた方が、1日をもっと有効活用できるなと。自分の時間割、ルーティンをつかむまでが難しかったけど、そこがつかめれば日本のキャンプと同じくらいの練習量を半日で終わらせて、午後はゴルフに行ったりバーベキューをしたり、効率良く時間を楽しむことができました」

2007年、フィリーズに移籍した井口氏【写真:アフロ】2007年、フィリーズに移籍した井口氏【写真:アフロ】

試合への準備をしようとした矢先…球場で告げられたトレード移籍

 もう一つ、井口氏にとって「挑戦」となったのが、2007年7月27日に突如決まったフィリーズへのトレード移籍だ。いつも通りに出掛けた球場で、試合の準備に取り掛かろうとした矢先の通告は、まさに晴天の霹靂。「日本でのイメージのまま『トレード=チームで不要』なのかと捉えてしまった自分がいましたね」。頭の中は真っ白、自然と涙がこぼれた。

 冷静に状況を見てみると、メッツと地区優勝を争うフィリーズは正二塁手チェイス・アトリーが右手を骨折。アトリーに代わる戦力として井口氏を求めた。

「よくよく考えると、メジャーを代表する二塁手が怪我をして、真っ先に自分を指名してもらったのは素晴らしいこと。合流したその日にスタメン入りしたり、シーズン終了後も残ってほしいと言われたり。あのトレードは、自分にとって非常に大きな意味を持ちました」

 トレードが持つ戦略的な意味合い、戦力として評価されての抜擢であることなど、咀嚼するまで少し時間を要したが、メジャー流への適応は井口氏の視野と思考の幅を広げた。この経験は、NPB復帰後も大いに生かされることになる。ロッテの監督時代には、チーム事情で選手が“飼い殺し”にならないよう、活発にトレードを実施した。

 自身の経験も踏まえ、井口氏は言う。

「何か環境が変わる時には、自分も変化していかないと適応することは難しい。もちろん、自分という軸を持つことも大事なんですけど、受け入れることもまた大事だと思いますね」

 まず違いを受け入れてみる。その柔軟性と懐の深さが「挑戦」を後押しする重要な要素になると言えそうだ。

(佐藤直子 / Naoko Sato)

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