“キラー”が語った「vs江川卓」 列島驚愕の8打数7安打…中日名手誕生への転機

元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】
元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】

豊田誠佑氏は明大3年春に左翼のレギュラー掴み“江川キラー”に

 大躍進の春になった。元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は明大3年(1977年)、東京六大学野球春季リーグ戦で首位打者に輝いた。法大4年の怪物右腕・江川卓投手(元巨人)から8打数7安打をマーク。「江川さんが俺に打たせてくれたんじゃないの?」と笑い飛ばしたが、この法大3連戦ではとにかく打撃が絶好調。江川が登板しなかった2戦目に放った“痛い思いからの一撃”も忘れられないという。

 豊田氏は1975年に日大三高から明大に進学し、俊足、巧打の外野手として大学1年秋にベンチ入りを果たした。だが、腰痛を発症して無念の離脱。合宿所からも強制退去を命じられる立場にまで一気に“降格”した。それでも諦めずにひたすら練習に取り組み、大学2年春に“復帰”。そこからはコンディション維持に神経を使うとともに打撃力もアップさせて、大学3年春には左翼のレギュラーポジションをつかんだ。

 その1977年春に明大は江川が大エースの法大と優勝争いを展開した。勝った方がVの両校直接対決は全試合、神宮球場超満員の大盛り上がり。ここで大いに目立ったのが豊田氏の打棒だった。2-4で明大が敗れた1戦目は、完投勝利の江川に対して4打数4安打。明大が1-5で敗れて、優勝を逃した3戦目も、これまた完投勝利の江川から4打数3安打をマークした。この8打数7安打の猛爆ぶりで「江川キラー」として知られる存在になったのだ。

「江川さんとは初めての対戦だったからね。4の4に、4の3。江川さんが俺に打たせてくれたんじゃないの?(笑)。まぁ、自分自身の調子も良かったのかな。真っ直ぐに対応しながら、変化球もヒットを打てたしね。カーブも三塁線に打ったし、真っ直ぐもライト線に打ったし、どっちでもなんかぴったり打てたのでね」と豊田氏は振り返った。「タイミングが合った? もうそれしかないでしょ。コツ? そんなのあるわけないよ」と笑った。

 そんな“決戦シリーズ”のことで、加えて口にしたのが、明大が豊田氏と同じ3年生の鹿取義隆投手(元巨人、西武)の好投で法大を破って1勝1敗とした2戦目のことだ。その試合に江川は登板していないが、思い出深いのは1打席目という。「スライダーをファウルしたら、股間に当たったんです。スタンドはセンターからバックネット裏まで法政、明治真っ二つの超満員ですごかったし、恥ずかしくて(痛みをこらえるために)飛び上がることもできなかったんですよ」。

日米大学野球選手権の日本代表メンバーにも選出されて活躍

 ただし、痛い思いをしただけで話は終わらない。「痛えな、痛えな、と思っていたら、またスライダーがきて、カッと打ったらレフトスタンドへ先制ホームラン」。痛みに耐えながらのスイングが価値ある一撃をもたらした。「(ダイヤモンドを)一周するときも(股間が痛いのを隠して)知らんぷりして(ベンチに)還ってきましたけどね(笑)」。1戦目の4打数4安打に続く、2戦目の先制アーチで豊田氏は波に乗った。

「(2戦目は)チームも勝ったし、それで(3戦目の)次の試合も4打数3安打だった」。法大との2戦目の一撃が、3戦目に弾みをつけて江川キラー“襲名”につながった。しかも、打率を「.444」まで跳ね上げ、レギュラーになった3年春のリーグ戦でいきなり首位打者のタイトルを獲得だ。「首位打者は(法大の)植松(精一)さん(元阪神)と競っていたんですけどね」。ベストナインにも選出され、豊田氏は一気にブレークしたわけだ。

 この活躍で、その年の7月に米国で開催された日米大学野球選手権大会の日本代表メンバーにも選出された。江川とも初めてチームメートになったが「あまり話さなかったなぁ。向こうが(1学年)先輩だし、こっちから話しかけることもなかったしね」と豊田氏は語ったが、バットの方はここでも好調だった。7試合を戦い、日本が2勝5敗で米国に敗れたなか敢闘賞を受賞して、さらに、その名を轟かせた。

 豊田氏の野球人生は、法大の怪物右腕・江川から8打数7安打を記録したことで大きく好転した。「江川キラー」の称号はこの先のプロでもずっと続いていく。まさに明大3年春がターニングポイントになった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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