“知識ゼロ”での中日入団 生粋の巨人ファン人生の転機…大エースの存在も「よく知らない」

元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】
元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】

俊足、巧打の外野手・豊田氏が振り返る中日入団の舞台裏

 名古屋市中川区で居酒屋「おちょうしもん」を経営する豊田誠佑氏は、1978年のドラフト外で明大から中日に入団した。明大3年春、法大の怪物右腕・江川卓投手(元巨人)を相手に8打数7安打とキラーぶりを発揮した外野手は、社会人野球チームからの誘いをすべて断り、進路をプロに絞っていた。その上でドラゴンズにお世話になることを決めたが、チームについてはほとんど知らなかったという。

 豊田氏は明大3年の1977年、東京六大学野球春季リーグ戦で法大・江川を“カモ”にするなど打率.444で首位打者に輝いた。日米大学野球にも、3年時と4年時に2年連続で選出されて活躍。大学リーグ戦での通算成績は62試合に出場し、203打数63安打の打率.310、5本塁打、26打点。「江川キラー」の異名で知られ、大学卒業後の進路はプロ入りを希望した。「(明大監督の)島岡(吉郎)さんには大反対されましたけどね」。

 島岡監督は豊田氏に社会人野球入りを勧めたという。「当時は、あまりプロに行かせてもらえなかったんですよ。島岡さんは、プロに行っても長いこと、飯が食えるわけじゃない。一流企業に行って、堅い仕事に就かなきゃ駄目だっていう考え方だったのでね」。実際、複数の社会人チームから声がかかった。「日本鋼管とか日立とか……。特に日立さんには一生懸命、来てくれ、来てくれと誘っていただいたんです」。

 しかし、豊田氏の決意も固かった。「もうプロしか頭になかった。だから内定とかももらっていません」とすべてきっぱり断った。結局、島岡監督の反対も押し切った。当初は日大三高卒業後に父が経営する寿司屋を継ぐため、板前修業の道に進む予定だった。だが、1974年の高3春に甲子園に出たことで「大学まで野球をやらせてほしい」と父に懇願して野球人生を“延長”。そして「大学でも首位打者を取ったりしたことで、また(野球に)色気が出たわけですよ」と、プロ入りまでの道のりを振り返った。

 プロ野球の道に進みたいとの思いは、事前に父親に伝えて了承を得ていたそうだ。だが、肝心のプロからの話がなかなか届かなかったという。「僕が聞いたのは中日だけだった。他(の球団)からの話はなかった。監督が止めていたのかもしれないけど、まったく他のことはわからなかった」。中日もドラフト外での誘いだった。1978年11月22日に行われたドラフト会議でも豊田氏の名前が呼ばれることはなかった。

 ドラフト前日(21日)には、1977年のクラウン(1978年オフから西武)からのドラフト1位指名を拒否し、法大卒業後、作新学院職員の立場で米国留学するなど“浪人”していた江川が、野球協約の盲点をつく“空白の1日”を利用して巨人と電撃契約。機構サイドがそれを無効としたことで、巨人は抗議のドラフトボイコットを実行し、ドラフト当日はものものしいムードだったが、豊田氏は「ドラフト当日のことはあまり覚えていない」と話す。ただし、どこからも指名されなくても危機感はなかったそうだ。

ドラフト会議前に父親が他界「中日に決まったのを知らずに逝ってしまった」

「ドラフト前に、中日からドラフト外で獲るって言われていたんだったかなぁ。その辺の時期的なことは、あまり覚えていないけど、ドラフトで指名されなくてピリピリしたりとか、焦った記憶もないんでね」。その年の中日は、住友金属の右腕・森繁和投手を1位入札したが、4球団競合で西武に抽選で敗れ、外れ1位で明大・高橋三千丈投手を指名した。豊田氏の同級生右腕がドラ1の名誉を手にしたが、それもあまり気にすることはなかったそうだ。

「(プロは)入ってからが勝負だと思っていました。入ってからは負けないように練習しようと、自分に言い聞かせていた部分はありましたけどね」。その後、豊田氏の中日へのドラフト外入団が正式決定。ただ、その姿を父・政吉さんには見せられなかった。「ガンで亡くなったんです。(東京六大学の)秋のリーグ戦が終わって、ドラフト会議より前に……。僕が中日に決まったのを知らずに逝ってしまったんです」。

 亡き父にプロで活躍することを誓って、豊田氏は中日入りした。「名古屋には親戚もいないし、知っている人もいなかった。中日のこともよく知らなかった。東京だったし、子どもの頃から巨人ファンだったので、相手チームということはわかっていたけど、鈴木孝政投手しか知らなかったもんなぁ。テレビを見てて巨人戦の時に抑えで出てきて、球が速くてスゲー、ピッチャーだなぁってね。他は全然。(中日エースの)星野(仙一)さんのことだってわからなかったんですよ」。

 驚くことに、明大OBで、すでに中日の大黒柱でもあった星野氏のことを「知らなかった」というのだから、よほど興味がないチームだったのだろう。もちろん、中日入りしてからは、星野先輩に豊田氏は公私にわたって、いろいろお世話になり、これもまた運命の出会いになるわけだが……。「車2台くらいで荷物を積んで、お袋たちも名古屋の寮まで来てくれたんだけど、みんな東京に帰って、1人残されて何か寒くて心細かったのを覚えているなぁ」。それが、縁もゆかりもない名古屋でのプロ生活の始まりだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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